「観るだけ美術部」部長のブログ

「観るだけ美術部」勝手に部長です。入部希望者は、コメント欄にメッセージを残してください。折り返し、勧誘に伺います(笑)。

あしたはきょうより、きっといい日。

[鉄道展]★7000型蒸気機関車(進善号)(模型)

イメージ 1
(北海道で2番目に走った7000型蒸気機関車(進善号)の模型)
 
★7000型蒸気機関車(進善号)(模型)(硫黄山レストハウスにて展示)
 1887年にアメリカのボールドウィン・ロコモティブ・ワークスが初めて日本に供給した蒸気機関車で、メーカーの種別呼称は「6-D-11」、車軸配置0-6-0(C)で2気筒単式の飽和式機関車でした。2両(製造番号8591、 8592)が製造されていました。機関車本体の運転整備重量が10t、全長は炭水車を含んでも10m足らずという軽便鉄道並みの小型機でしたが、大型のダイヤモンドスタック付きの煙突や、機関車前部に装備されたカウキャッチャーなど、典型的なアメリカ古典機スタイルでした。後に、これを軌間762mmのタンク機仕様とした同系機が、陸軍鉄道連隊によって大量に輸入され、日露戦争中の満州朝鮮半島で使用されています。
 機関車には、釧路鉄道のオーナーであった安田善次郎にちなんだ愛称が付けられておりました(「進善」号、「長安」号。「安田善次郎伝」による。なお、メーカー側の記録では、"Zenshin" "Choan”)と命名されている)。廃線後は、北海道庁鉄道部(北海道官設鉄道)に売却されてC1系(4、5)となり、1905年に官設鉄道(鉄道作業局)に編入され、Ea形と称しました。官設鉄道では、1909年(明治42年)に制定された鉄道院の車両形式称号規程により7000型(7000、7001)と称し、旭川岩見沢で入換、工事用に使用され、1921年と1919年に廃車となりました。このうち、ここ硫黄山レストハウスに保存されている機関車の模型は、「進善号」号を模したものです。
 
 川湯温泉の泉源のひとつが、温泉近郊にある川湯硫黄山アトサヌプリ)です。1872年(明治5年)から、アトサヌプリ山麓の硫黄山で佐野孫右衛門によって硫黄採掘が始まったのですが、これは北海道開拓使の方針に基づく囚人労働でした。採掘権は佐野孫右衛門が亡くなったのち、1887年(明治20年)安田善次郎に譲渡されました。安田は直ちに、標茶に大規模な精錬所を建設して、輸送用に鉄道を敷設しました。この建設は、囚人を使って行われ、現在のような重機もない環境で約41kmの距離をわずか7か月で建設させたと伝えられています。鉄道は1887年(明治20年)に開通。当初は硫黄鉱山の専用鉄道という位置づけでした。区間は現在の釧網本線五十石駅 - 摩周駅に相当しました。開通後は、硫黄山から五十石駅まで鉄道を使い、五十石駅からは蒸気船による釧路川の水運を使って積出港である釧路港まで硫黄を輸送しました。
 しかし硫黄鉱山の過酷な労働で死亡者が続出し、逃亡を図る囚人は斬殺されたと伝えられています。この惨状を知った原胤昭は、大井上典獄に進言し、陰惨な事実が表面化。大井上典獄は安田善次郎との契約を破棄し囚人を集治監に引き揚げました(1888年)。1896年(明治29年)には硫黄の資源が次第に減少し、採掘が中止されました。これが事実上の廃線ということになりました。
 現在、硫黄山ビジターセンターの裏手に、当時の路線跡が残っていると聞いています。廃線跡をめぐるツアーがあり、これを利用して当時の名残をたどることができるそうです。
 
※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、ブログ運営者がみずから撮影したものです。
 
↓いつも足しげく訪問していただき、ありがとうございます。きょうも1クリック、よろしくお願いします。
¤ˤۤó¥֥�¼ Èþ½ѥ֥� ³¨²è¤Ø(ʸ»ú¤򥯥ê¥å¯)
あしたはきょうよりもっといい日。