「観るだけ美術部」部長のブログ

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[廃線跡]★旧跡佐登駅(旧釧路鉄道、川湯硫黄山)

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(川湯硫黄山アトサヌプリ)。この付近に現在でも当時の路線跡が残っているそうです)
 
★旧跡佐登駅 (旧釧路鉄道、川湯硫黄山
 川湯温泉の泉源のひとつが、温泉近郊にある川湯硫黄山アトサヌプリ)です。1872年(明治5年)から、アトサヌプリ山麓の硫黄山で佐野孫右衛門によって硫黄採掘が始まったのですが、これは北海道開拓使の方針に基づく囚人労働でした。採掘権は佐野孫右衛門が亡くなったのち、1887年(明治20年)安田善次郎に譲渡されました。安田は直ちに、標茶に大規模な精錬所を建設して、輸送用に鉄道を敷設しました。この建設は、囚人を使って行われ、現在のような重機もない環境で約41kmの距離をわずか7か月で建設させたと伝えられています。鉄道は1887年(明治20年)に開通。当初は硫黄鉱山の専用鉄道という位置づけでした。区間は現在の釧網本線五十石駅 - 摩周駅に相当しました。開通後は、硫黄山から五十石駅まで鉄道を使い、五十石駅からは蒸気船による釧路川の水運を使って積出港である釧路港まで硫黄を輸送しました。
 しかし硫黄鉱山の過酷な労働で死亡者が続出し、逃亡を図る囚人は斬殺されたと伝えられています。この惨状を知った原胤昭は、大井上典獄に進言し、陰惨な事実が表面化。大井上典獄は安田善次郎との契約を破棄し囚人を集治監に引き揚げました(1888年)。1896年(明治29年)には硫黄の資源が次第に減少し、採掘が中止されました。これが事実上の廃線ということになりました。
 現在、硫黄山ビジターセンターの裏手に、当時の路線跡が残っていると聞いています。廃線跡をめぐるツアーがあり、これを利用して当時の名残をたどることができるそうです。
 
※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、ブログ運営者がみずから撮影したものです。
 
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