「観るだけ美術部」部長のブログ

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あしたはきょうより、きっといい日。

[旅行案内]★増毛国稀酒造

★増毛国稀酒造
 寒仕込み(かんじこみ)とは、日本酒の仕込み方法のひとつで、気温の低い冬場に、あえて仕込むものを言います。寒造り(かんづくり)とも言います。日本においては、江戸時代初期までは「四季醸造」と名づけられる技術があり、新酒、間酒(あいしゅ)、寒前酒(かんまえざけ)、寒酒(かんしゅ)、春酒(はるざけ)と、年に五回、四季を通じて酒が造られていました。しかし、1667年(寛文7年)、当時もっとも酒造技術が進んでいた伊丹市で、それまでの寒酒の仕込みが改良され、この寒造りが確立されたと言われています。1673(延宝元年)、徳川幕府が、寒造り以外の醸造を禁止すると、四季醸造は急速に衰退への一途をたどり、反対に、寒造りが醸造法の主流となっていきました。また、寒造りが主流となったことによって、酒造りは冬場に限られた仕事となり、その結果、農民が出稼ぎとして、冬場だけという期間限定で、杜氏を請け負うことができるようになりました。

 四季醸造は、昭和になって、工業技術と空調設備の発達によって復活したのですが、醪(こうじ)作りなど、いくつかの工程において、酵母に効果的な活動をうながすため、現在でも、低温で作られることが望ましいとされています。そのため、自然な低温環境である冬季を利用して、現在もさかんに寒造りがおこなわれています。そのいっぽうで、それに携わる蔵人(くらびと)たちにとっては、冬場の早朝の作業は辛苦を伴うものです。

 北海道を代表する蔵元「国稀」酒造は、1882年(明治15年)の創業。初代本間泰蔵が、増毛郡役所に醸造免許鑑札願いを届け出て以降、醸造が始められました。本間泰蔵は、1849年(嘉永2年)、新潟県佐渡島の仕立て屋の三男として生まれました。1873年(明治6年)23歳で小樽に渡り、呉服店の養子格の番頭として働きました。このとき、ニシン景気でわく増毛に、しばしば行商で来ていたこともあって、1875年(明治8年)増毛に移り住み、呉服商を始めました。

 1882年(明治15年)には、「丸一本間」を名乗り、本業の呉服商の他に、雑貨販売、漁獲物の輸送、海運業、ニシン漁にも手を拡げ、ついに醸造業も始めるに至りました。当時、日本酒の多くは本州からの移入がほとんどで、価格は決して安いものではありませんでした。本間泰蔵は、より安価な日本酒を造りたいという願いを持っていました。そこで、佐渡島出身の知人頼み込んで、醸造法を学んだと言います。

 現在、会社の社名ともなっている代表銘柄の「國稀」は、その昔は「國の誉」という名前でした。「國稀」という商標が、乃木希典(のぎまれすけ)元陸軍大将の名前にちなんで付けられたのは、有名な話です。
 本間泰蔵は、実際に乃木大将と面会したことがあります。その人格に大きな感銘を受けた泰蔵は、増毛に戻り、乃木希典の希の一字をもらい、「國の誉」を「國稀」と改めました。「希」ではなく「稀」としたのは、そのまま使用するのはおこがましいと考えたためで、「のぎへん」をつけて、「国に稀な良いお酒」という意味合いも持たせました。なお、乃木大将は、1912年(大正元年明治天皇の大葬の儀式当日、静子夫人と共に自決し、本懐を遂げています。

★「国稀一杯やろう会」2010新酒まつり
http://blog.hokkaido-np.co.jp/rumoishichou/2010/03/post_82.html
 オーベルジュましけ 2Fホール、2010年3月20日(土)18:00

国稀酒造株式会社 HP
http://www.kunimare.co.jp/

 ※「国」→「國」と表される場合があります
あしたはきょうよりもっといい日。