「観るだけ美術部」部長のブログ

「観るだけ美術部」勝手に部長です。入部希望者は、コメント欄にメッセージを残してください。折り返し、勧誘に伺います(笑)。

あしたはきょうより、きっといい日。

[汽車旅]★茅沼炭鉱石炭積出港・玉川 (茅沼炭鉱軌道)

イメージ 1
(茅沼炭鉱石炭積出港の跡と思われます)
 
★茅沼炭鉱石炭積出港・玉川 (茅沼炭鉱軌道)
  1856年(安政3年)、泊村茅沼にて、ひとりの漁夫により「燃える石」石炭が発見されました。開港まもない箱館にとって、欧米の蒸気船用の石炭の確保は重要であったため、直ちに箱館奉行所は、茅沼にて石炭の調査を開始します。1864年(元治元年)、箱館奉行所アメリカ人技師を招き、茅沼炭鉱の採掘を開始。イギリス人技師エラスムス・ガウワーは、運炭の効率化のために鉄道(トロッコ)の建設を提案しました。1866年(慶応2年)には測量が開始され、軌道の建設が始まり、1869年(明治2年)に開通しました。開業したのは、茅沼炭鉱坑口-茅沼港(積み出し港)の2.8km。新橋-横浜間の蒸気機関車開通を以って「日本発の鉄道開通」とするのが定説ですが、それに先行すること3年、ここに「日本初」の「鉄道」が開通していたことになります。
  しかし「鉄道」といっても、蒸気機関車が通っていたわけではありません。仮設軌道やトロッコに近いものでした。茅沼炭鉱坑口から積み出し港までは緩やかな傾斜であることを利用し、茅沼炭鉱坑口→積み出し港は、貨車の重さを利用して坂を下らせた。制御のため、人が1名乗車していたと言います。積み出し港→茅沼炭鉱坑口は牛、馬の力、場合によっては人力で動かしていました。小型貨車は、茅沼炭鉱坑口に滑車を設置し、2台の貨車を長いロープで繋ぎ、井戸の釣瓶のように2台を交互に動かす方法をとっていたそうです(日本最初期のインクライン)。1881年(明治14年)に完工した整備工事により、レールが鉄製に置き換えられました。
  茅沼港は港が小さいため、大型船が接岸できず、はしけ荷役により岩内港へ石炭を運んでいました。沢口汽船から鉱区を買い取った茅沼炭礦株式会社(後に茅沼炭化礦業と改称)は、岩内港まで索道を設けることを検討しましたが、進捗の遅れと会社経営悪化により、当初の竣工予定年であった1950年(昭和25年)になって工事半ばで中止。その後、その茅沼炭鉱も国のエネルギー政策によって、茅沼炭鉱も1964年(昭和39年)に閉山になり、108年の歴史を閉じ、地域開発と暖房炭確保のため引き続きできた泊炭鉱も1969年(昭和44年)に閉山となって、泊村から文字どおり炭鉱の灯が消えてしまいました。最盛期、茅沼炭鉱で栄えた頃は約1万人が泊村に住み、その約半数が炭鉱のあった茅沼地区の人たちだったといわれています。
 前述の通り、茅沼港は茅沼炭鉱坑口から延びる茅沼炭鉱軌道の終点にありました。しかし、港は拡張させるだけの広さは無く、はしけ荷役により岩内港へ石炭を運んでいました。泊村沿岸には、のちにニシン漁が豊漁になったときに造られた「袋間」が各地に残されていますが、ここに掲載した画像の遺構はおそらく、旧茅沼港のものと考えて間違いないと思われます。袋間の遺構は、これよりも年代が新しいため、かなりよい状態で現存しています。
 
イメージ 2
(現在の玉川。護岸が変色しているのがわかります)
 
  茅沼炭鉱軌道は、ここに画像として載せた「玉川」に沿って敷設されました。現在でも、この「玉川」は黄土色に変色した護岸が見られます。付近の住民に話を聴くと、現在でも茅沼炭鉱からの鉱物(不純物)にじみ出て流れているため、このように変色してしまうのだそうです。
 
※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、ブログ運営者がみずから撮影したものです。
 
↓いつも訪問していただき、ありがとうございます。きょうも1クリック、よろしくお願いします。
¤ˤۤó\֥�¼ Èþ½ѥ֥� ³¡¯²è¤Ø(ʸ»ú¤򥯥ê\å¯)
あしたはきょうよりもっといい日。