「観るだけ美術部」部長のブログ

「観るだけ美術部」勝手に部長です。入部希望者は、コメント欄にメッセージを残してください。折り返し、勧誘に伺います(笑)。

あしたはきょうより、きっといい日。

[特別展]★晩「成」社展 帯広開拓140年・帯広市市制90年記念

(晩「成」社展)

★晩「成」社展 帯広開拓140年・帯広市市制90年記念

 帯広百年博物館、2022年8月13日(土)-9月19日(月・祝)

(WEBサイト→)

museum-obihiro.jp

 帯広・十勝開拓の先駆者の「依田勉三」と「晩成社」。晩成社が後世に何を残したのか、残された様々な資料から探ります。

 依田勉三(1853年-1925年)の実家は、甲州武田氏の流れを汲む伊豆国大沢村の豪農でした。19歳で上京し、その後慶應義塾大学に進み、福澤諭吉の理念を学び、北海道開拓の決心を固めます。1883年(明治16年)募集に応じた13戸27名と共に帯広に入植を開始。同年は鹿狩りの際の野火と、イナゴの襲来を受けて、まったく収穫が無かったと言います。1884年(明治17年)も天候が優れず不作で、開拓民のなかには絶望感が広まっていました。1885年(明治18年)には農機具を購入して機械化を試みるも、これも失敗し、当初13戸あった開拓団は3戸にまで激減しています。

(晩「成」社展)

 1892年(明治25年)ごろには、やや状況が好転します。依田勉三は開拓の功績により緑綬褒章を受章。豚や牛を飼育し、ハムの製造を開始します。しかし1902年(明治35年)バター工場を造って製造を開始するも、経営は軌道に乗らず、1916年(大正5年)に、とうとう晩成社は活動を中止せざるを得なくなりました。1925年(大正14年)依田勉三が逝去するに至り、1932年(昭和7年)には晩成社も解散することになりました。

(晩「成」社展)

 帯広を代表する銘菓に、菓子メーカー六花亭の作る「マルセイバターサンド」があります。この包み紙に描かれている「成」の文字は、晩「成」社の「成」の字です。「マルセイバターサンド」は、晩成社の業績を記念した洋菓子です。なお、依田勉三の開拓を象徴する川柳に「開拓のはじめは豚と ひとつ鍋」がありますが、六花亭にはこのエピソードをモチーフとした「ひとつ鍋」という名前の「もなか」があります。

(マルセイバターサンドのラベルに、晩「成」社のロゴ)

 依田勉三による十勝原野の開拓は、結果的には失敗で終わりましたが、晩成社解散の翌年であった1933年(昭和8年)に、帯広市は北海道で7番目の市制が施行されました。失敗したけれども、依田勉三の業績が、現在の帯広市、十勝地方の発展に大きく貢献したのは、間違いありません。

あしたはきょうよりもっといい日。