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[講演会]★大和田勉 「史料からみる依田勉三・晩成社」

★大和田勉 「史料からみる依田勉三・晩成社」
 帯広百年記念館、2015年4月25日(土) 14:00

 明治から大正時代に作成された史料に基づいて、依田勉三・晩成社の活動のようすを読み解きます。

 依田勉三(よだべんぞう)は、嘉永六(一八五三)年伊豆国那賀郡大沢(現静岡県賀茂郡松崎町)の豪農の家に生まれ、明治三年に上京、同七年に慶應義塾に学ぶ。福澤先生の影響を受け、北海道開拓の志を立てるが、胃を病み、二年在学の後、退学し帰郷する。同十二年、兄佐二平は豆陽学校を設立した。勉三も設立に尽力し、そこで教鞭をとっていた。 
 勉三の生家は、現在「依田之庄大沢温泉ホテル」となっている。伊豆急蓮台寺駅からバスで三十分のところにある大沢温泉ホテルは、築三百年といわれる庄屋屋敷を改装して客室にしていたり、なまこ壁の土蔵が史料館になっていたり、和の情緒錺れる宿になっている。豆陽学校はやがて県立の旧制中学校となり、戦後は静岡県下田北高校と改称。
 平成十六年に敷地内に依田佐二平・勉三の胸像が建立された。下田北高校は、平成二十年に下田南高校と合併し、下田北高校の跡地に下田高校(蓮台寺駅より徒歩十五分)として開校したが、胸像はそのままである。
 明治十四年、北海道開拓の夢を捨て切れない勉三は、単身北海道に渡り、開拓のための調査を行い、十勝に目をつける。翌年、未開地一万町歩(約一千万裃)の払い下げを受けて開墾をするため、兄佐二平はじめ親族等を発起人として晩成社を設立し、当時、アイヌ十戸、和人一戸の集落であった十勝のオリベリ(現帯広市)を開墾予定地とする。同十六年、十三戸二十七人が帯広に入植するが、天候不順の上、鹿猟の野火、イナゴの大群、兎・鼠・鳥などに襲われ、殆ど収穫をすることができず、惨状を極めた。
 帯広の晩成社跡地であった帯広神社前の中島公園には、「依田勉三銅像」が立つ。帯広出身の歌手中島みゆきの祖父で、帯広商工会議所会頭、帯広市議会議長を務めた中島武市が、土地と銅像建立の費用を負担して昭和十六年に完成したものである。太平洋戦争の金属供出に遭ったが、昭和二十六年に再建された。
 銅像より東八百メートルの地、国道三八号と南五丁目通が交差する所に「開基明治十六年帯広発祥の地」の碑(昭和四十一年建立)が立っており、入植者たちが豚と同じものを喰っていたという意の勉三の歌、「開拓の始めは豚と一つ鍋」が裏面に刻まれている。現在、ここの町名は依田町になっている。
 明治十九年、食糧不足を打開するため、帯広から四十キロも離れた当縁(とうべり)郡当縁村生花苗(おいかまない)(現広尾郡大樹町(たいきちょう)晩成)に酪農を主とした千七百ヘクタールの農場を開設した。蒸気機関を利用した工場も建設し、現在十勝の名産となっている牛肉、ハム、バター、練乳、そして大和煮などの缶詰を生産するが、販路の確保が困難で、しかもまだ需要が少なかったこともあって、これらの先進的事業は赤字を増やすだけの結果となった。
 開墾も当初十五年で一万町歩という目標であったが、十年掛かってやっと三十町歩という状況であった。国道三三六号から生花(せいか)郵便局角を生花苗(おいかまない)沼とーへ向かい、その途中にある人里離れた当縁牧場跡は、晩成社史跡公園として整備されている。半地下式のサイロ跡、井戸跡、室跡があり、明治二十六年から大正四年まで勉三が住んでいた住居が平成元年に復元された。四畳ほどの居間と土間、物置、風呂場しかない粗末な家である。 
 また明治二十八年頃から、帯広から約八キロ離れた幕別村(現中川郡幕別村依田)に途別農場を開き、水稲の試作を重ねた。冷害、凶作で殆どの小作人が去ってしまったこともあったが、地道な努力により水田経営も軌道に乗り、大正九年十一月、伊豆から兄もわざわざ来訪し祝宴を開いている。晩成社唯一の成功例と言っていいであろう。しかし、晩成社全体の経営を押し上げるほどには至らなかった。
 JR札内駅から三キロ強、幕別町依田近隣センター近くに大正九年に建てられた佐二平撰文の「途別水田の碑」と、当地を徳源地と名付けたことから「徳源地の碑」、昭和五十九年に建てられた「依田勉三翁頌徳之碑」が立つ。また、十勝幕別温泉グランヴィリオホテル前、依田公園の幕別ふるさと館内には、途別農場で小作人が使用していた「きまり小屋」が移築され、唯一現存している。
 間口三間、奥行二間の決まりきった大きさから「きまり小屋」と呼ばれた。当時は戸数が十数戸あり、入り口にはムシロを下げ、カンテラを灯し、冬は寝間に藁を入れ、囲炉裏を囲んで寒さをしのいだという。
 大正十三年春より、勉三は中風に罹り、同十四年十二月十二日、帯広町西2条9丁目の自宅で「晩成社にはなにも残らん。しかし、十勝野には・・・」と語り、息を引き取った。
 享年七十三。そして、晩成社も多くの負債を抱え、創業五十年の満期を迎えた昭和七年、倒産同様に解散している。勉三の墓は、帯広墓地(東8南14)の中央やや南よりにある。墓は、昭和四年に嗣子依田八百により建てられたものだが、平成二十一年十月改修と記されているせいか、墓石はたいへん美しく、「依田家之墓」と刻まれ、戒名は「晩成院帯水浄源居士」となっている。
 帯広に本社を持ち、塾員小田豊氏が社長を務める製菓会社「六花亭」では、勉三にちなんだ名の菓子を製造している。最も有名なのは「マルセイバターサンド」で、包装紙が明治三十年頃晩成社で作られたバターのラベルから意匠したものである。また、「十三戸」というこし餡入りの焼き菓子は、初雪の降る民家をイメージしたもので、入植時の十三戸から。「ひとつ鍋」というお鍋をかたどった餅入り最中は、「開拓の 始めは豚と 一つ鍋」の勉三の歌から。「万作」という桃山風の菓子は、福寿草春一番に早く咲くところから、晩成社の人たちは福寿草のことを「まず咲く」がなまって万作と呼んでおり、勉三が詠んだ「万作や 何処から鍬を おろそうか」の歌から、それぞれ命名されている。
 明治二十八年、人口三百人ほどの帯広に、囚人千三百人、職員二百人の北海道釧路集治監十勝分監(通称十勝監獄)が置かれ、受刑者によって街路が整備されるなど、帯広発展の契機になった。十勝監獄跡の帯広緑ヶ丘公園にある帯広百年記念館の常設展示「開拓の夜明けと発展」に「晩成社」のコーナーが設けられ、勉三の功績を讃え、彼の偉業を今も市民に伝えている。展示品には、マルセイバターの容器やレッテル、コンデンスミルクのレッテル、勉三が伊豆を出発する前日に詠んだ直筆の書「留別の詩」などもある。
 勉三の事業は、失敗したと言っていいだろう。もう少し時代が下っていたら、販路や需要の問題も変わっていて、勉三への風が吹いたかもしれない。しかし、平成二十三年六月の帯広市の人口は約十七万人で、十勝地方の中心都市である。勉三の蒔いた種が実った結果とも言えるのではないだろうか。勉三の銅像の顕彰文にも「十勝国ノ今日在ルハ君ノ先見努力ノ賜ナリ」の一文がある。
 札幌円山公園にある北海道神宮内に、昭和十三年、北海道開拓に貢献した三十六柱を祀る開拓神社が建立され、同二十九年、勉三は三十七柱目の祭神として合祀された。彼の業績が認められた結果であろう。(慶應義塾大学機関誌『三田評論』より)

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