今回のハイライトでもあった敦煌莫高窟の観光も終えて、この日は敦煌郊外観光をしたのち、ウルムチ市に向かいます。
きのうの沙州市場(沙州夜市)で食べた「敦煌ラーメン」。麺は腰が無いので、物足りないのですが、スープは美味しかったです。太い素麵をラーメンスープに入れた感じですかね。
まず向かったのが、「楡林窟」です。こちらも敦煌郊外にある石窟寺院で、楡林河の両岸、東壁におよそ30窟、西壁に11窟が現存し、「西千仏洞」とも呼ばれています。莫高窟に比べるとスケールでは負けますが、ほぼ同時代の造営(唐、五代、西夏、ウイグル、宋代)で、様式も莫高窟に近いとされています。楡林窟は、特に壁画が貴重と言われています。時間がなく、今回の見学は特別窟1つでしたが、第2窟、第25窟は特に、ほの暗いなかで懐中電灯を頼りに見学すると、色鮮やかな普賢菩薩が浮かび上がり、一瞬息をのむほどの美しさです。
つぎに見学したのは「玉門関」です。シルクロードの要衝で、前漢の武帝が、紀元前108年に設置したものです。のちに、唐代になって修復されました。シルクロード上の堅牢で重要な拠点であり、その名前は玉の産地であったホータン(和田)と中原(黄河流域)を結ぶ中継地点であったことから名づけられました。現存する玉門関の遺構は唐代のもので、一辺が26m四方の正方形で高さは10m、唐代には2万人の兵隊が駐屯していたと言われています。古来から玉門関は、文化人が辺境の地での戦いや生活を思い詠嘆する地でもあり、唐代の王之渙や李白が漢詩を詠んでいます。
(「陽関」。玉門関と並び、漢代の最西端の関所でした)
玉門関と並び、最西端の関所であったのが「陽関」でした。こちらも設置は漢代。玉門関に比べると、修復は進んでおらず、掲載写真のような状態でしたが、だからこそ、いっそう遥か昔の歴史に思いを馳せることができました。陽関も玉門関と同様、シルクロードの要衝であり、重要で堅牢な関所のひとつでした。玉門関より南に位置しているため「陽関」と名付けられたそうです。前漢の武帝によって設置され、玉門関と合わせて「二関」と呼ばれています。陽関も、古代より孤独な生活を思い詠嘆する地で、特に唐代の詩人王維の漢詩「送元二使安西(元二の安西に使ひするを送る)」がとても有名です。「西出陽関無故人(西のかた陽関を出づれば故人(友だち)無からん」の句は、現代でも送別の折に、3度繰り返し吟じられることも多い有名な詩です。
陽関からさらに進んだところに、漢代の万里の長城があります。前漢の時代は、いまから2000年以上前。三国志の遥か以前、紀元前の話です。高さ3m、幅3mの遺構で、このあたりは乾燥地帯で、湿度が低いため、そのような昔の建築物でも最も良好な状態で残っています。
ここから、マイクロバスに乗り換えて柳園南駅に向かい、柳園南駅から高速鉄道に乗り換えて、ウルムチ市まで行きます。柳園南駅までは2時間、そこからウルムチ市までは、高速鉄道で5時間の乗車となりました。ウルムチ市の到着は、深夜となりました。
深夜の到着となったため、夕食も遅い時間にいただきました。酢豚です。日本のように、パインやピーマンは入っていなくて、豚肉だけのシンプルな酢豚でした。