★荻野吟子 関係資料ほか(荻野吟子資料展示室 収蔵品常設展)
せたな町/荻野吟子資料展示室、常設展示
荻野吟子(1851年-1913年)は、明治時代に生きた人です。生まれは江戸時代末期の1851年で、ペリー来航の直前期に当たります。出身地は北海道ではなく、埼玉県熊谷市でした。子ども時代は、庄屋という家柄ゆえ、恵まれた環境で育ち、学問に励みました。
十代で結婚するも、約2年で離婚。発端となったのは、夫に性病をうつされたことでした。大学病院に入院し治療にあたりますが、ここで、後に偉大な女医が誕生するきっかけが生じます。担当医が男性だったこともあり、吟子は羞恥心と屈辱感に苛まれたそうです。このつらい経験から、「女医が必要である」 と考え、自ら女医を志すことにしたのだそうです。
とはいっても、当時の社会は女人禁制や男尊女卑。その前途には高い壁が立ちはだかりました。それでも、吟子はよく学問に励み続けました。20代前半には 上京して、まずは井上頼圀(よりくに)の主宰していた「井上塾」に入門、やがて「内藤塾」に招かれ るほど知名度も上がりました。その後、東京女史師範学校(現在のお茶の水女子大学の前身)第一期生として入学、4年後に首席で卒業、私立医学校である「好寿院」に入学し、上位成績で卒業しました。
これだけ熱心に医学について学び、ずばぬけて成績優秀であったにもか かわらず、悲しいことに卒業直後に提出した開業医受験願はいずれも却下。理由は「女性だから」だったそうです。これに同情した荻野吟子の後継者、高島嘉右衛門は、「井上塾」の井上頼圀にかけあい、支援を願い出ます。井上頼圀は、衛生局長への紹介状を用意し、彼女が学んだ「好寿院」の経営者、石黒忠悳(ただのり)と共に局長に面会します。このとき、「女性に受験資格はないという条文がない」と訴えて、衛生局長を説得させたといいます。
こうした助けと彼女の熱意が実り、ようやく受験が認められたのでした。 そして1884年と1885年に前期後期にわかれて行われた医術開業試験で、吟子は悲願の合格、こうして日本に女医第一号が誕生しました。このとき35歳。女医になることを決心してから十数年が経過していました。
1885年、産婦人科荻野医院が開業しました。吟子は「明治女学校」の校医となるなど活躍した後、医院を休業、夫を追って北海道へ渡ることになりました。 住んだところはインマヌエル(=「神の丘」、現在のせたな町今金区)。 翌年1897年には、せたな町瀬棚区で荻野医院を開業しました。
このとき40代。医院を続けるかたわら、婦人会を結成したり、日曜学校の創設をしたりと、医学以外の面でも活躍しました。夫が同志社大学に再入学するため北海道を離れたあとも、彼女は札幌で、婦人科・小児科を開業しています。夫が病死した後の58歳に北海道を離れ、大正時代の1913 年に63歳で亡くなりました。
せたな町瀬棚区(旧瀬棚町)は荻野吟子のまち。荻野吟子小公園には「顕彰碑」があります。また、生誕150年記念として2001年に旧瀬棚町役場前に 「荻野吟子女史像」が設置されています。郷土資料館にも遺品の数々が展示されています(のちに小公園が整備され移設されています)し、彼女の精神を受け継ぐ「荻野吟子記念瀬棚国保医科診 療所」も近年開業しています。
近年、映画『一粒の麦 荻野吟子の生涯』が公開されました。