「観るだけ美術部」部長のブログ

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[講演会]★石尾乃里子「あまりにもマリーローランサン」

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(画像は、マリーローランサン『婦人』水彩画)

★講演会「あまりにもマリーローランサン 岡田謙三「野外習作」をめぐって」石尾乃里子(当館学芸員
 北海道立近代美術館、2010年6月12日(土)14:00

 岡田謙三という画家は知らず、マリーローランサンもおぼろげにしか知らないのですが、この演題「あまりにもマリーローランサン 岡田謙三「野外習作」をめぐって」に、興味をおぼえます。画風が、あまりにも酷似していたのでしょうか。岡田謙三という画家も、有名な作家さんですので、そのあたり、どうなのか、聴いてみたいものです。

※岡田謙三(おかだけんぞう)(1902-1982)
 洋画家。横浜市に生まれます。東京美術学校西洋画科を中退して、1924-27年(大正13年-昭和2年)フランスに留学。1938年二科会員。1950年(昭和25年)からニューヨークに住み、ピッツバーグカーネギー国際美術展ベネチア・ビエンナーレ展で受賞。第3回現代日本美術展で国立近代美術館賞を受けた『元禄(げんろく)』(1957)ほか、日本的な装飾性と叙情性を生かした抽象作風により、ユーゲニズム(幽玄主義)と称せられました。1960年フォード財団美術賞を受け、合衆国市民権を得ています。1967年第8回毎日芸術賞受賞。

※マリーローランサン(1883-1956)
 マリーローランサンは、1883年(明治16年)に生まれ、夢見がちな少女時代ののちに画家を志すようになり、当時の先進的な芸術家グループの一員となります。彼らのたまり場だったアトリエ兼用の古いアパート、通称「洗濯船」で、ピカソアポリネールらとの伝説的な青春時代を送るうちに、「淡い色調と簡潔なフォルムによる憂いをたたえた詩的な女性像」という独自の画風を作り上げました。30歳になるころには、有望な新進画家として世に知られ、当時、パリに各国から集って「エコール・ド・パリ(パリ派)」と呼ばれた多くの芸術家たちの中でも、重要な一角を占めるようになったのです。
 ところが、31歳の結婚直後に始まった第1次世界大戦のため、その後7年間に及ぶ亡命生活を強いられます。愛する故郷や親しい友人たちとも離れたこの間の作品は、どれも痛いような孤独にあふれていました。
 戦後、離婚して単身パリに戻ってからのローランサンは画風を大きく変えます。それまで彼女の絵にぴったり寄り添っていた「憂い」を消し去り、繊細さと華やかさと官能性をあわせ持つ、夢の世界の幸せな少女像を生み出しました。再び戦争に向かう前のつかの間の爛熟した平和のひととき、「狂乱の1920年代」のパリで、ローランサンは時代の雰囲気の表現者となったのです。ローランサン肖像画を注文することが上流婦人の流行となり、また舞台装置や衣装のデザインなどでも成功を収めました。
 その後、第2次世界大戦ではパリを占領したナチス・ドイツ軍に自宅を接収される苦労も味わいながら戦後を迎え、世の美術の動きがより急進的になっていくのを見守りながらも、静かな老いの中で、自らが信じる美しいものを描き続けて1956年(昭和31年)に亡くなりました。

★北海道立近代美術館、ギャラリートーク「あまりにもマリーローランサン」HP
http://www.aurora-net.or.jp/art/dokinbi/info/artevent.html

★マリーローランサンWikipedia
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%9E%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%AD%E3%83%BC%E3%83%A9%E3%83%B3%E3%82%B5%E3%83%B3
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