「観るだけ美術部」部長のブログ

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あしたはきょうより、きっといい日。

[旅行案内]★二十間道路さくら並木(名桜探訪⑦)

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(画像は、北海道遺産、桜の名所100選などにも選ばれた、二十間道路さくら並木)

★二十間道路さくら並木(静内)

 「日本の道百選(昭和61年、建設省)」「さくら名所100選(平成2年(財)日本さくらの会)」にも選ばれた、北海道を代表する桜並木。約3,000本の桜が、直線7kmに渡って咲き誇ります。かつてこの地にあった、宮内省の「御料牧場」を視察するための、皇族の行啓道路として造成されたのがはじまりとされています。1916年(大正5年)から、3年間の月日を費やして、近隣の山々からエゾヤマザクラなどを移植。その時、左右の道幅がちょうど二十間(約36m)あったことから、「二十間道路」と呼ばれるようになりました。
 現在は、「日本の道百選」「さくら名所100選」のほか、「新・日本街路樹100景(平成6年、読売新聞社)」や、「北海道遺産(平成16年、北海道)」などに選ばれ、日本屈指の桜の名所として、多くの人から親しまれており、毎年5月上旬から5月中旬には、艶やかに咲き誇る日本一の桜並木をひと目見ようと、全国各地から20万人もの観桜客が訪れます。

 静内地区「二十間道路」桜並木は、北海道開拓使長官・黒田清隆が、1872年(明治5年)、当時の静内町を訪れた際、野生馬が群れをなしているのを見て、積雪が少なく野草の多い日高地方が産馬改良には最適の地であると判断したことがきっかけでした。その後、静内・新冠沙流郡にまたがる約7万ヘクタールに及ぶ大規模な牧場を区画し、野生馬2,262頭を狩り集めて、初期の官営牧場を開設。のちに、宮内庁所管の「新冠御料牧場」として整備されます。1903年(明治36年)、同牧場を皇族が視察する計画が持ち上がったため、その行啓道路として「二十間道路」が造成されました。幅二十間(36m)・延長約8km(直線で約7km)という雄大なこの道は、いつの日からか「二十間道路」と呼ばれるようになります。この地に桜が植栽されたのは、1916年(大正5年)のことで、当時の同牧場職員が、近隣の山々からエゾヤマザクラなどを道路の両端に移植したのでした。それに要した歳月は3年にものぼりました。
 厳しい自然と艱難辛苦の過程を経て、毎年、その雄大な景観を見せてくれる「二十間道路桜並木」は、やがて日本一の桜並木と称され、多くの桜人を魅了し、数々の栄誉にも輝きました。

★龍雲閣
 さくら並木の終点に建つ、純和風の建物です。もともと、二十間道路は、御料牧場の視察のために造られた道路です。龍雲閣は、1908年(明治41年)、その御料牧場(現独立行政法人新冠牧場)に視察に訪れる皇室、貴族の客舎(貴賓舎)として建築されたもので、翌年に竣工しました。
 宿舎(貴賓舎)という性格から、皇族を始め、多くの名士高官がご来場、滞在されました。大正・昭和の2代に亘る天皇陛下が、それぞれ皇太子時代に行啓されています。また、1987年(昭和62年)には、髭の殿下と親しまれてきた三笠宮智仁親王殿下、同妃殿下が訪問。2006年(平成18年)には、天皇皇后両陛下が訪れています。
 木造一部2階建て、延べ513平方メートルの優美な御殿造りの外観。内部には、龍雲閣の名付け親というべき、伊藤博邦公の揮毫額、狩野探幽の屏風、谷文晁の掛け軸、伊藤博文公揮毫額などを始め、皇族などの方々が使用なされた家具、馬具などの品々が所蔵されています。
 1972年(昭和47年)に、新冠種畜牧場起業百年事業の一環として、老朽化した龍雲閣の修復工事が行われました。工事にあたり、内外とも、できる限り64年前の状態を復元しましたが、屋根については、当時の楢柾葺きに復することができないこと、また、今後の耐久性などの面から、銅板葺きとなりました。骨組みには、現在ではなかなか見ることのできない逸材を惜し気なく使っており、また、それらの組み方も一種独特の方法が用いられています。階下のうち、4室は、本来畳敷きであったものを板張りに改修し、龍雲閣にまつわる、あるいは皇室にまつわるゆかりの品々を陳列しています。
 館内は、「しずない桜まつり」の期間のみ、一般開放されています。
あしたはきょうよりもっといい日。