「観るだけ美術部」部長のブログ

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あしたはきょうより、きっといい日。

[絵画展]★モディリアーニとフジタ 名作版画展

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(画像は、モディリアーニ『ジャンヌ・エビュテルヌの肖像(若い女の肖像)』1918、個人所蔵(パリ))

モディリアーニとフジタ 名作版画展
 東急札幌店、2010年4月8日(木)-2010年4月14日(水)

■アメジオ・モディリアーニ
 20世紀を代表する「エコール・ド・パリ」の画家。エジプトやアフリカなどの原始美術と、故郷イタリアに息衝くシエナ派など古典芸術の厳格性を融合させ、縦に引き伸ばされたかのような面長の顔と、アーモンド形の瞳による独自の人物画を確立。類稀な造形性と、抒情的で画家自身と同調するかのような独特な人物表現は、以降の現代芸術に多大な影響を与えました。友人・知人、恋人などを描いた肖像画や、裸婦像、少年・少女など子どもを描いた作品がとりわけ有名ですが、数点の風景画も残されています。また、モディリアーニは、驚異的な集中力で作品を一気に仕上げる(早描き)ことで知られており、モデルを前に、4時間足らずで作品を仕上げたとの逸話も残されています。

 1884年、イタリアのリヴォルノで、スペイン系ユダヤ人の一家の息子として生まれます。一家はモディリアーニが生まれる直前に破産していたものの、裕福な叔父の援助により、一家は経済的に安定していました。幼い頃から絵画に興味を抱いていたモディリアーニは、生まれつき病弱体質で、1900年に肺結核により病気療養のため、フィレンツェヴェネツィアナポリ、ローマなど、気候のよい土地を巡る旅に出ます。この、芸術都市で触れたシエナ派など古典作品群から、多大な芸術的影響を受けたとされています。1901年、故郷リヴォルノを離れ、フィレンツェの裸体美術学校で学び始め、1903年から3年間、ヴェネツィアに滞在。同地でマッキア派や後期印象派グスタフ・クリムトエドヴァルド・ムンク、アンリ・ド・トゥールーズロートレックなどの、象徴主義や分離主義などの作品にも強く惹かれました。1906年、羨望の地パリへと向かいます。当初は、当時若い画家が数多く居住していたモンマルトルで活動するのですが、1909年からモンパルナスに拠点を移しました。この頃、ジャン・コクトー、シャイム・スーティン、モイズ・キスリングなど、「エコール・ド・パリ」を代表する芸術家・画家たちや、パブロ・ピカソディエゴ・リベラ、モーリス・ユトリロ藤田嗣治など、同時代を代表する画家と交友するも、キュビスムなど時代の先端をゆく絵画様式とは一線を画す独自の様式であったことや、自堕落な生活・態度であったために、パリの美術界で孤立し、長い間、異端として扱われました。
 1909年から1914年まで、彫刻家ブランクーシの影響を受け、彫刻家として精力的に活動するも、重労働であることから、病弱であったモディリアーニは体力的な面で支障をきたし、彫刻活動を断念します。1917年、画学生であったジャンヌ・エビュテルヌと出会い、深い恋愛関係に落ちることになります。晩年期(1919年頃)にようやく画家として評価され始めたものの、結核髄膜炎により、36歳で夭折。恋人ジャンヌ・エビュテルヌも、数日後にモディリアーニの後を追うように自殺しました。なお、モディリアーニの作品は死後、急速に値段が高騰し、10年経過した1930年に開催されたヴェネツィアビエンナーレでの回顧展で、ようやく20世紀を代表する画家としての正当な評価を受けることになりました。

★サルヴァスタイル美術館 HP
http://www.salvastyle.com/menu_20th/modigliani.html

★東急札幌店 催事場案内HP
http://www.tokyu-dept.co.jp/sapporo/event/index.php
あしたはきょうよりもっといい日。