「観るだけ美術部」部長のブログ

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[建築物]★大阪城 多聞櫓(大阪市)

 「観るだけ美術部」部長は、2019年2月に大阪市へ出張することになりました。そこで、しばらく予習を兼ねて、大阪市の建築や美術について記事を書いていきます。できれば、「大阪城」と「北浜」には行きたいと思っています。

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大阪城 多聞櫓。こちらが渡櫓で、右側に続櫓が接続されています)

大阪城 多聞櫓(大阪市

 大手門枡形(ますがた)の石垣の上に建つ櫓で、櫓門(大門、おおもん)の上をまたぐ渡櫓(わたりやぐら)と、その右側に直角に折れて接続する続櫓(つづきやぐら)によって構成されています。徳川幕府による大坂城再築工事により寛永元年(1628年)に創建されましたが、天明3年(1783年)に落雷によって全焼してしまい、嘉永元年(1848年)に再建されました。土塁や石垣上に築かれた長屋様式の建物を一般に多聞(多門)櫓と呼ぶのですが、その名称は、戦国時代の武将松永久秀(まつながひさひで)が大和国(現在の奈良県)の多聞城を築いた際、この形式の櫓を初めて造ったことに由来します。現存する多聞櫓の中でも、大坂城の多聞櫓は最大規模で、建築総面積は710.25㎡、高さは14.7m。渡櫓は内部には70畳敷きを最大とする部屋が4室、続櫓内部には廊下のほか9畳、12畳、15畳の部屋が計6室あって多数の兵隊や武器弾薬を備えることができ、枡形の内側には多くの窓があり、また櫓門(大門)をくぐる敵軍を真上から攻撃できる「槍落とし」の装置が設けられるなど、高い防御能力を備えています。大阪城の二の丸には京橋口、玉造口にも多聞櫓があったとされていますが、現存するのはここだけです。重要文化財。また、第四師団当時は兵学校の一部としても使用されており、昭和42年(1967年)の解体修理の際には当時使用された名札や土瓶、薬瓶などが発見されました。

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(大手門から侵入する敵軍を防ぐため、多聞櫓は重要な櫓でした)

※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、大坂城観光ガイドさま(HP)よりお借りしました。

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