「観るだけ美術部」部長のブログ

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[建築物]★大坂城 天守閣(大阪市)

 「観るだけ美術部」部長は、2019年2月に出張することになりました。若干のフリータイムもあるようなので、そのときに「大阪城」と「北浜」に行きたいと思います。そこでしばらくは、その予習も兼ねて、これらの場所について調べ記事にしていきたいと思います。

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大阪城天守閣。復興天守閣で3代目。昭和6年(1931年)の建築で登録文化財


 現在の天守閣は昭和6年(1931年)、大阪市民からの多くの寄付金を元手とし、「大坂夏の陣図屏風」に描かれた豊臣時代の天守閣を参考にして建設されました。鉄骨鉄筋コンクリート造りで、本丸から最上階の鯱(しゃちほこ)までの高さは54.8m、古典建築を近代的な技術によって再現した天守閣としては、わが国最初の復興天守第1号です。
 初代の天守閣は、豊臣秀吉大坂城を開始して3年目となる天正13年(1585年)に完成し「太閤はんのお城」として大坂市民に親しまれましたが、慶長20年(1615年)の大坂夏の陣で苛烈な激戦の末、周辺の櫓もろとも完全に焼失。
 2代目の天守閣は2代将軍徳川秀忠主導によるによる再築工事の第2期工事により寛永3年(1626年)に現在の場所に築かれ寛永6年(1629年)に完成しました。寛文5年(1665年)硝煙櫓(火薬庫)に落雷があり、庫内の黒色火薬が82.4t、弾薬43万発がいっせいに暴発、天守閣を始め本丸御殿、多くの櫓が焼失損壊しました。以来、大坂城天守閣のない城郭として幕末まで至っています。慶長3年(1868年)「王政復古の大号令」の後、二条城を追われた15代徳川慶喜大坂城に居城しましたが、旧鳥羽伏見の戦いが始まると、大坂城を抜け出して江戸城に退却したため、大坂城は新政府軍に明け渡されました。なお、この戦闘で本丸御殿のほか、四番櫓、五番櫓、七番櫓は完全に焼失しています。
 3代目の(現在の)天守閣は、陸軍用地であった旧本丸一帯の公園化計画にともなって、昭和3年(1928年)11月に就任した当時7代大阪市長の關一によって再建が提唱され、市民の寄付によって昭和6年(1931年)に竣工。この市民の寄付には、申し込みが殺到したと言われ、およそ半年で目標額の150万円(現在の700億円に相当)が集まったそうです。そのうち25万円は、住友財閥の総帥、住友友成の寄付だったそうです。150万円のうち、天守閣の再建に47万円、第四師団司令部庁舎の建築に80万円、本丸などの公園整備に23万円が当てられました。
 3代目(現存する)天守閣は、徳川大坂城天守台石垣に新たに鉄筋鉄骨コンクリートで基礎を固めた上に、鉄骨鉄筋コンクリート構造を吊り下げ工法で建てられました。5層8階で高さは54.8m、復興天守閣の内部は博物館「大阪城天守閣」となっています。外観は『大坂夏の陣図屏風』を基に、大阪市土木局建築家の古川重春が設計、意匠は天沼俊一、構造は波江悌夫と片岡安、施工は大林組が担当しました。全体フォルムは、『大坂夏の陣図屏風』(黒田長政、1615年)に描かれた豊臣時代様式の大坂城をモデルにしたとされています。建物は、太平洋戦争での大阪空襲でも焼失を免れました。3代目(現存する)天守閣は徳川時代様式の白漆喰壁とした一方、5層目は豊臣時代様式に黒漆に金箔で虎や鶴(絵図では白鷺)の絵が描かれています。平成9年(1997年)には復興以降初めての改修工事が完了し、阪神淡路大震災級の地震にも耐えられるように耐震補強されました。同年、歴史的景観に寄与する近代建築物として、国の登録有形文化財に指定されました。なお、戦後の学術調査によって、豊臣時代の天守閣は現在地よりも東側あったことが判明しており、高さはおよそ40m、配水池の地下付近から天守台石垣の一部が発見されています。

※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、大坂城観光ガイドさま(HP)よりお借りしました。

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