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[講演会]★安部洋子「生まれ育った樺太・落帆(おちほ)の思い出」

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(落帆川(ロシア・コルサコフ市))
 
★講演会/安部洋子「生まれ育った樺太・落帆(おちほ)の思い出」
 道立開拓記念館、2011年9月18日(日) 13:30
 100年前、南極探検隊に犬ぞり係として参加した山辺安之助ゆかりの地、落帆(おちほ)。祖父母が制作したお椀と刺しゅう布を寄贈していただいた安部さんに、樺太での生活の様子をお聞きします。聞き手は田村将人(当館学芸員)さんです。
 
★道立開拓記念館、講演会HP
 
 樺太東海岸、落帆川の河口近くの地名。山辺安之助が率いる樺太アイヌの集落と、漁業、林業に携わる和人の集落が設けられた。また、沿岸の漁場も分かれていた。山辺が創設したアイヌのための学校はその後、和人の小学校と統合される。1945年のソ連軍占領後、1948年に樺太アイヌの大半は日本に渡り、離散を余儀なくされた。落帆周辺は、現在はサハリン州コルサコフ市の管轄でレスノエ(Resnoe)と呼ばれている。
 
 山辺安之助(やまべ やすのすけ(やまのべ、とする場合も)(1867年-1923年)は、白瀬矗の南極探検隊に樺太犬犬ぞり担当として参加した樺太アイヌアイヌ名「ヤヨマネクフ」(Yayomanekuh)。両親を幼い頃に亡くす。樺太は1854年(安政元年)の日露和親条約以来、無国境状態だった。当時の樺太アイヌ人口は2,372人(1873年資料)。
 1875年(明治8年)樺太・千島交換条約によって樺太はロシア領と決定。日本と関係が深かった亜庭湾周辺の樺太アイヌ108戸、841人が北海道に移住する際に9歳の山辺も同行。政府は樺太アイヌを内陸の対雁(ついしかり)村(現江別市)に強制移住させるが、農業化に失敗し生活は困窮。1893年(明治26年) ロシア領の樺太に小さな船で自力帰還。トンナイチャ(富内村)の総代、ラマンテ(東内忠蔵)のところに落ち着く。樺太では、日本の漁業権が認められており、山辺秋田県象潟の商家「角丁」の佐々木平次郎(良心的な漁場主として樺太アイヌに信頼されていたとされる)の鰊、鮭、鱒の漁場で働く。番屋はオホーツク海と富内湖の接する場所にあった。また、民族学者のブロニスワフ・ピウスツキと知り合い、樺太アイヌの古謡や古伝を伝える。
 1904年(明治37年)日露戦争が勃発し、ロシア軍の攻撃で佐々木漁場の番屋と倉庫をすべて焼失。山辺は日本側について物資輸送や偵察に協力した。山辺は南極探検後に日露戦争の功績として、アイヌでは初の勲八等瑞宝章を授与される。表彰金70円が出たが、山辺は「金を貰うためにロシアと戦ったのではない」として村に寄付。1907年(明治40年)金田一京助樺太を初調査。ラマンテから英雄叙事詩(ハウキ)を聞き取る際、日本語が上手な副総代の山辺が協力。金田一山辺について「六尺豊かな風貌だが、話してみると物腰の静かなやさしく穏やかな人柄」(採訪随筆)と述懐。1909年(明治42年)トンナイチャの総代となった山辺が、樺太アイヌのための最初の学校を富内村西部のオチョポカ(落帆)に建設する。佐々木漁場が資金支援。
 1910年(明治43年)樺太日日新聞(樺太新聞)の依頼で樺太犬を集める過程で南極探検参加を決意。同年11月29日、白瀬やもう1人の樺太アイヌ花守信吉とともに、芝浦ふ頭から開南丸で南極に出発。1911年(明治44年)南極圏に到達したが、ほとんどの犬が死ぬ。シドニーに撤退後、11月に樺太犬30頭を投入し、南極圏へ再挑戦する。1912年(明治45年)ロス棚氷に接岸。同年1月28日、南緯80度05分、西経165度37分に到達。2月4日、悪天候に遭い緊急離岸。流氷に取り囲まれ、犬を6頭しか収容できず20頭が置き去りとなる。6月、開南丸が東京帰着。1913年(大正2年) 『あいぬ物語』出版。落帆で開拓に取り組み、半農半漁による集落の収入安定を図る。1923年(大正12年)落帆で病没。盛大な葬儀が営まれた。
 
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(南極探検隊の隊員として活躍した、山辺安之助)
 
☆「山辺安之助」(Wikipedia
 
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