「観るだけ美術部」部長のブログ

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あしたはきょうより、きっといい日。

[旅行案内]★登別グランドホテル

★登別グランドホテル
 「ノボリベッという小川あり。この川上に温泉湧き出て、流れ来るため、白粉と紺青をかきたてるが如し。一日も水底の見ゆる事なし(『蝦夷草紙』最上徳内著)」。210年前の登別温泉の風景を描写した一文です。1845年(弘化2年)には、有名な探険家の松浦武四郎登別温泉に初めて訪れています。当時は、けもの道のような険しい山道しかなく、通常は訪れる人は、まれだったようです。

 1858年(安政
年)に、場所請負人・岡田半兵衛が、硫黄採取のために道を開き、旅人や鉱夫の湯治を目的に「止宿所(宿泊所)」を建て、次いで滝本金蔵が、同氏の許可を受けて湯守となりました。これが、登別温泉の始まりと言われています。さらに、明治維新の後に、滝本金蔵は役場より湯守の許可を受け、私費で道を整えて湯宿を設けました。その後、1905年(明治38年)日露戦争傷病兵の保養地に指定されてから「名湯」として全国に名が広まり、全国から湯治客が集まるようになりました。
 1915年(大正4年)栗林五朔がJR登別駅-温泉の8kmの区間に軌道馬車を敷き、1918年(明治7年)に蒸気機関車を走らせました。巨額の私財を投じた彼の功績によって、温泉街の基盤ができ上がり、旅館や土産物店が次々と立ち並んでいきました。

 その後、経営を引き継いだ栗林徳一は、先代が築いた基礎の上に、欧米留学、ヨーロッパの温泉保養地、観光地などをヒントにして、温泉プールを併設した大浴場や、子どもの国遊園地、北大病院付属院(兼温泉研究所)など、登別温泉街に近代的手法を次々と取り入れ、実践し、近代的な施設を建設していきました。
 登別グランドホテルは、その成果が集約された象徴ともいえる存在でした。登別グランドホテルは、1938年(昭和13年)栗林徳一の発案によって建設されます。赤い屋根瓦に、青いひさしがついたクリーム色をした建物でした。当時は、その外観のモダンさに、近隣住民も見ほれるほどだったといいます。
 1954年(昭和29年)の昭和天皇・皇后両陛下の北海道御巡幸の際には、ご宿舎にあてられました。3Fには、この1954年(昭和29年)8月29日と、1961年(昭和36年)5月26日の2回、昭和天皇・皇后両陛下がご宿泊された際の品々や、当ホテルの歴史を物語る収蔵品などが展示されています。それ以来、登別グランドホテルは、「登別温泉の迎賓館」と呼ばれるようになり、現在に到っています。

★「観るだけ美術部員」のつぶやき
 大浴場は、「ローマ風大浴場」と呼ばれるもの。創建当時の大浴場の雰囲気を残して造られたそうです。浴場の中央にある立像は、彫刻家・加藤顕清の作。加藤顕清は帝展入選も果たした人物で、北海道美術史にも確固たる地位を築いた作家です。

★登別グランドホテルHP
http://www.nobogura.co.jp/
あしたはきょうよりもっといい日。