「観るだけ美術部」部長のブログ

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[企画展]★伊達成実 東国随一の猛将の生涯展

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伊達成実着用 『黒漆五枚胴具足』、桃山時代、だて歴史文化ミュージアム

伊達成実 東国随一の猛将の生涯展
 だて歴史文化ミュージアム、2019年4月3日(水)-5月26日(日)

 伊達成実を一言で語ると、「武芸に優れた豪快で勇猛な戦国武将」と言われています。確かに青年期までは、盟主・伊達政宗も驚くような武勇が際立っていましたが、壮年期以降は文藝の才能が発揮されています。むしろ、文才にあふれ、几帳面なこの姿こそが、本来の伊達成実の姿そのものに見えてきます。ここでは、政宗の片腕となった成実の誕生から、政宗と共に活躍した時代と、没してもなお崇められる成実の生涯を振り返ります。
 伊達政宗仙台藩藩祖となり、まさに東北の覇者に登り詰めました。その活躍を支えたのが、亘理伊達家2代当主、伊達成実でした。成実は信夫郡大森城(現在の福島県福島市)で生まれました。政宗とは1歳年下であり、政宗が関わる戦にはすべて参戦しました。例えば、天正13年の人取橋合戦、天正17年の摺上原の合戦での活躍は、成実の武勇を天下に広め、政宗の前半生の戦歴の中で燦然と輝いています。また、文禄元年(1592年)に豊臣秀吉が朝鮮に出兵したとき慶長の役では、朝鮮へわたり戦っています。その後、慶長7年(1602年)になって政宗の命により亘理に入府しました。亘理では町割りを大きく改造し、新田や塩田の開発を進め、入府当時は6,000石だった知行は、40年後には20,000石に達したと言われています(江戸時代、1万石あれば大名と言われていました。支藩とは言え、2万石は破格でした)。

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(前立てにはクマの毛皮が使われており「毛虫」を表しています。
毛虫は決して後ろに下がらないことから、前立てに選んだと言われています)

 晩年、政宗の死後に『政宗公御軍配(成実記)』』を書き残しました。様ざまな合戦の状況や、当時の具体的な様子が描かれており、政宗に近侍していた成実だからこそ記すことができた政宗研究における第一級史料となっています。
 時は流れ、幕末戊辰戦争直前のある日、亘理伊達家15代邦成は供養と戦勝祈願のために成実の墓参をします。これから起こる出来事に対して、後ろに引くことなく前に向かって進む決心を新たにしました。
 「毛虫の前立て」が示すように、前へ前へと戦国の世を駆け抜け、実直な生き方をした成実は、現在もなお魅力的な武将として語り継がれています。

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(この弾痕は合戦で被弾したものではなく、鉄板の強度を保証するための「試し撃ち」のよるもの)

※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、ブログ運営者がみずから撮影したものです。

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