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[汽車旅]★茅沼炭鉱 ズリ山 (茅沼炭鉱軌道)

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(泊村茅沼炭鉱のズリ山。2011年5月27日撮影)
 
★茅沼炭鉱 ズリ山 (茅沼炭鉱軌道)
 1856年(安政3年)、泊村茅沼にて、ひとりの漁夫により「燃える石」石炭が発見されました。開港まもない箱館にとって、欧米の蒸気船用の石炭の確保は重要であったため、直ちに箱館奉行所は、茅沼にて石炭の調査を開始します。1864年(元治元年)、箱館奉行所アメリカ人技師を招き、茅沼炭鉱の採掘を開始。イギリス人技師エラスムス・ガウワーは、運炭の効率化のために鉄道(トロッコ)の建設を提案しました。1866年(慶応2年)には測量が開始され、軌道の建設が始まり、1869年(明治2年)に開通しました。開業したのは、茅沼炭鉱坑口-茅沼港(積み出し港)の2.8km。新橋-横浜間の蒸気機関車開通を以って「日本最初の鉄道」の「開通」とするのが定説ですが、それに先行すること3年、ここに「日本初」の「軌道」が存在していたことになります。
 しかし「軌道」といっても、蒸気機関車が通っていたわけではありません。仮設軌道やトロッコに近いものだったようです。茅沼炭鉱坑口→積み出し港までは、緩やかな傾斜であることを利用し、貨車の重さを利用して坂を下らせました。制御のため、人が1名乗車していたと言います。積み出し港→茅沼炭鉱坑口は、牛、馬の力、場合によっては人力で動かしていました。小型貨車は、茅沼炭鉱坑口に滑車を設置し、2台の貨車を長いロープで繋ぎ、井戸の釣瓶のように2台を交互に動かす方法をとっていたそうです(日本最初期のインクライン)。1881年(明治14年)に完工した整備工事により、レールが鉄製に置き換えられました。
 
 茅沼港は港が小さいため、大型船が接岸できず、はしけ荷役により岩内港へ石炭を運んでいました。沢口汽船から鉱区を買い取った茅沼炭礦株式会社(後に茅沼炭化礦業と改称)は、岩内港まで索道を設けることを検討しましたが、進捗の遅れと会社経営悪化により、当初の竣工予定年であった1950年(昭和25年)になって工事半ばで中止。その後、国のエネルギー政策によって、茅沼炭鉱も後を追うように1964年(昭和39年)に閉山になり、108年の歴史を閉じます。地域開発と暖房炭確保のため引き続きできた「泊炭鉱」も、1969年(昭和44年)に閉山となって、泊村から文字どおり炭鉱の灯が消えてしまいました。最盛期、茅沼炭鉱で栄えた頃は約1万人が泊村に住んでいたそうですが、その約半数が炭鉱のあった茅沼地区の人たちだったといわれています。

 茅沼地区の小さな村道を奧に進むと、かつての炭鉱のズリ山が見えてきます。遠くからでも、かなり目立つ存在です。ホッパーなど、当時の遺構はまったく残っていませんので、このズリ山が唯一、当時の様子を伝えています。
 
※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、ブログ運営者がみずから撮影したものです。
 
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