★星野直子「星野道夫、北海道への思い」悠久の時を旅する展 プレイベント
北海道立帯広美術館、2024年3月9日(土)14:00
(WEBサイト→)
今回の講演会は、「星野道夫 悠久の時を旅する」展に先立ち、プレイベントとして星野直子さんをお招きし、同じく北の大地に魅せられた坂本直行の展覧会と合わせて行われるものです。
坂本直行は、1906年(明治39年)釧路市生まれ。のちに郷士坂本家7代目当主となる坂本弥太郎(木材商社、坂本商会の代表)、直意夫妻の次男として生まれました。1911年(明治44年)に郷士坂本家の5代当主坂本直寛(母、直意の父親で、直行の祖父)が死去。1913年(大正2年)釧路火災で自宅家財を焼失したため、坂本家は1914年(大正3年)札幌に転居。札幌二中(現在の札幌西高等学校)に通い登山を始めました。1924年(大正13年)坂本直行は父親の勧めで北海道帝国大学(現在の北海道大学)農学実科に進学。在学中は山岳部に在籍して、登山に親しんだと言います。坂本直行は1927年に北海道帝国大学を卒業したのち、温室園芸を学ぶため、東京府(現在の東京都)の温室会社に就職。その後札幌で温室園芸会社を起業するも、父親からの資金援助がなく頓挫します。
1929年(昭和4年)北海道帝国大学の同窓と共に農業経営をするため、そのまま十勝地方広尾村に転居、同地の野崎農場で働きながら牧場経営を学びました。1934年(昭和9年)には、相川修と共に南日高楽古岳の積雪期初登頂を成功させています。1936年(昭和11年)には広尾村下野塚に25ヘクタールの民有未開拓地を手に入れて入植。同年、石﨑ツルと結婚し、5男2女の子どもを儲けます。また、1937年(昭和12年)には北大山岳部OBとして第一次ペテガリ岳遠征隊に参加、1940年(昭和15年)には北大山岳部OBとして第二次ペテガリ岳遠征隊にも参加(このときは雪崩に遭遇し、北大山岳部の後輩ら遠征隊員8名が犠牲となっている)したほか、北海道の自然をモチーフとした風景画や植物画を熱心に描き続けました。1942年(昭和17年)には『開墾の記』を出版しています。
厳しい土地での苛烈極まりない生活は、1965年(昭和40年)まで続き、以後は札幌市西区にアトリエを構えて、画業に専念。1967年(昭和42年)にはネパール、1973年(昭和48年)にはカナディアンロッキーにスケッチ旅行をしています。1974年(昭和49年)に北海道文化賞を受賞しますが、1982年に逝去しました。
坂本直行の作品で、最も有名なのが、帯広市の六花亭製菓の包装紙デザインでしょう。1958年(昭和33年)帯広千秋庵(現在の六花亭製菓)の社長、小田豊四郎が坂本宅を訪問、彼から児童雑誌『サイロ』の表紙絵デザインの依頼を受けたことがきっかけで、翌年から坂本直行がデザインした花柄の包装紙が帯広千秋庵(現在の六花亭)で使用されるようになりました。なお「ちょっこう」という呼び名は、「直行」を訓読みしたもので、坂本直行は親しみを込めてそう呼ばれていました。また、幕末の志士、坂本龍馬の末裔としても知られ、2006年には高知県立坂本龍馬記念館で「『おかえり!直行さん』反骨の農民画家 坂本直行展」が開かれました。
坂本直行は、登山家、開拓者、農民運動家、画家など、様ざまな顔を持ち、山の仲間には畏敬され、絵の愛好者に敬愛され、農民には敬慕されてきました。北大卒業後、一人の開拓民として原野に挑み、爪に火を点す生活、理不尽な開拓行政との闘いの中にありながら、原野の草花をいつくしみ、遥かな日高山脈に憧憬の視線を送り、その情熱をキャンバスに描き続けました。「観るだけ美術部」部長も、大学時代に山岳部に所属していたこともあり、その足跡を大雪山や日高山脈に追った思い出があります。懐かしいです。
※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、北海道立帯広美術館さま(HP)よりお借りしました。