★旧有島武郎邸 建物探訪バスツアー.2
木田金次郎美術館、2010年11月14日(日) 岩内出発10:00
この建物は、北海道札幌郡白石村(現在の札幌市白石区)に建てられ、小説家・有島武郎が、 1910年(明治43年)5月から翌年7月頃まで住みました。1974年(昭和49年)に解体され、1979年(昭和54年)に現在地・北海道開拓の村に移築復元されました。なお、札幌市内の札幌芸術の森には、有島武郎が大正期に住んでいた建物が現存しています。
有島武郎は学習院中等科を卒業後、1896年に18歳で札幌農学校予科第五年級に編入学し、遠縁にあたる新渡戸稲造教授の官舎に寄寓しました。翌年には本科に進学、学友会誌『学藝會雑誌』で活動し、農学校25周年には校歌も作詞したそうです。小説『星座』は、この時代を題材にしています。1901年、森本厚吉、星野勇三、半沢洵(いずれものちに北海道帝国大学教授)らと共に、第19期生として卒業しました。卒業後、入営、アメリカ留学など経て、1908年から17年まで東北帝国大学農科大学教員を務め、主に予科の英語を担当。この間、札幌独立基督教会、遠友夜学校、社会主義研究会、美術団体「黒百合会」の活動にも中心的に関わったほか、『或る女のグリンプス』(のちに『或る女』に発展)などを執筆しました。
教員時代の有島が住んだ家は現在も2軒見ることができます。そのうちの1軒が、ここで取り上げた旧有島武郎邸です。当時は、札幌区白石町の豊平川近く(現白石区菊水1条1丁目)にあり、1910年5月から約1年間住みました。名作『生まれ出づる悩み』のモデルとなった画家・木田金次郎が訪ねてきたのは、ここで紹介した有島邸だったと思われます。もう1軒は、札幌芸術の森に保存されている旧有島武郎邸です。
『生まれ出づる悩み』に、このような一節があります。「私が君にはじめて会ったのは、私がまだ札幌に住んでいるころだった。私の借りた家は札幌の町はずれを流れる豊平川という川の右岸にあった。その家は堤の下の一町歩ほどもある大きな林檎園の中に建ててあった。(中略)そこに、ある日の午後、君は尋ねてきたのだった」
そして最終末には、このような一節も。「君よ! 今は東京の冬も過ぎて、梅が咲き椿が咲くようになった。太陽の生み出す慈愛の光を、地面は胸を張り拡げて吸い込んでいる。春が来るのだ。君よ、春が来るのだ。冬の後には春が来るのだ。君の上にも確かに、正しく、力強く、永久の春がほほえみよかし…僕はただそう心から祈る」