「観るだけ美術部」部長のブログ

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あしたはきょうより、きっといい日。

[建築物]★豊平館

豊平館
 豊平館の設計は、開拓使工業局営繕御用掛の安達喜幸、工事は大岡助右衛門が請け負いました。1879年に建築を始め、翌年11月に完成、12月3日に落成式が催されています。完成当時、完全な西洋式のホテルは、日本にほとんどなかったそうです。
 豊平館最初の宿泊客は、明治天皇で、札幌行幸のとき、1881年8月30日から9月2日までの4日間、行在所に用いられました。これによって、開拓使は面目をほどこし、豊平館の格式もあがりました。同年11月6日に、開拓使は旅館と料理店の経営を、民間に委ねます。しかし、天皇が泊まった2階客室に他の人を泊めることを避け、1階だけを利用させたため、ただでさえ少ない客室がさらに減ることになり、料金も高く、ホテルとしての利用は低調であったようです。

 札幌市の発展とともに式典・大会会場の需要が高まったため、札幌市は1921年に、宮内省に願い出て、豊平館を譲り受け、1926年に豊平館の裏に新しい建物を作って連結させました。豊平館と新しい建物は、市の中心部にある公会堂として、盛んに利用されるようになりました
 豊平館は、第2次世界大戦中に北部軍に利用され、戦後にアメリカ軍に接収されます。のちに、アメリカ軍が三越札幌支店を接収すると、三越にかわりの店舗として貸与されました。アメリカ軍が近郊の「キャンプクロフォード」に移転した1947年に、札幌市のもとに戻りました。

 長く大通公園の東の端にあった豊平館は、1957年に中島公園への移築のため、解体されました。跡地には、新しい市民会館が建てられました。以後の豊平館は、市営の結婚式場として利用されています。
 豊平館の基調はマサチューセッツ様式ですが、意匠の細部に和風のモチーフを取り入れています。様々な洋風建築を手がけた開拓使の、後期の建築物として、西洋建築を昇華しきった水準のものとされています。文明開化期に建てられたアメリカ様式の建物として、また開拓使による建築として、現存するものの中で最も重要な建築物のひとつとされています。

 構造は、地上2階、地下1階の洋風建築で、地下は石造、地上は木造。資材は札幌近郊から調達されました。1階には正面ロビーをおき、客室4、食堂、ビリヤードが置かれ、背面に突き出たところに厨房、浴室、便所がありました。1階ロビーと2階ロビーは、2つの階段で通じ、2階には客室4、宴会場、前室がありました。地階には、また別の厨房が置かれました。食堂、ビリヤード場、宴会場の床面は、ダンスパーティーでの利用を想定して、角材を横に並べてボルトで閉じ、分厚い板にしたもので支えられています。また、壁の間に土壁を挿入して、防寒を期したようです。
 当初の外観は、壁に白を、その他にウルトラマリンブルーを配したものでした。正面玄関には、半円形の車寄せを突き出し、その上を柱で支える半円形のバルコニーとしました。バルコニーの上に、小さなペディメントを設け、ここに懸魚を配しています。

 1958年の移築の際に、結婚式場としての利用のため、内部がいくつか変更されました。大きなところでは、地階がコンクリート造りになり、客室のひとつが水洗便所に変わり、その他客室・寝室などの部屋の間取りが変わりました。移築時にみつかった特殊な床構造と、土壁は、再現されませんでした。1982年から1986年に、創建時の姿に近づける修復がなされています。この時に、それまで他の色に塗られていたウルトラマリンブルーが復活しています。

 現在では、主に市営の結婚式場として利用されています。他に喫茶店、写真館、予約制のレストランが入っています。内部の見学は無料です。

豊平館 ウィキペディア
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B1%8A%E5%B9%B3%E9%A4%A8
豊平館 レストランHP
http://www.hoheikan-sugiyama.co.jp/
豊平館 結婚式場HP
http://www.hoheikan-bridal.com/
あしたはきょうよりもっといい日。