「観るだけ美術部」部長のブログ

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あしたはきょうより、きっといい日。

[歴史展]亘理伊達家のひなまつり展

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                     常設展示されている亘理伊達家のひな人形

★亘理伊達家のひなまつり展
 伊達市開拓記念館、2010年3月1日(月)-2010年3月7日(日)

 北海道のひなまつりは、いつごろから祝うようになったのでしょうか。『松前歳時記草稿』や、江差増田家の『礎日記』、函館の『箱館月次風俗書』などの記録に現れるのは、江戸末期になってからのことです。松前武家江差・函館の商家では、早くから祝っていたようですが、日本海沿岸地域ではニシン漁期と重なるため、小正月(1月15日ごろ)に雛を飾り、女年越しとともに祝う家が多かったといいます。そうした江戸期の雛の数々が、伊達市開拓記念館に現在も伝えられています。

 芥川龍之介の短編小説に「箱を出る顔忘れめや雛二対」という蕪村の句の引用で書き起こされる『雛』という佳品があります。明治の御一新からどれほどの歳月を経たでしょうか、ある没落士族が、手元の苦しさから、名品の雛を売りに出すことになります。手放す前にもう一度見たいとせがむ娘の願いを、頑なに拒んでいた父が、明日はいよいよ引き取りに来るという日の夜半、ひとり並べた雛に見入っているのを、娘は、夢の中の出来事のように垣間見るのです。「定紋と、、替え紋を、たがい違いに繍った塩瀬の石帯を締め、象牙の笏を構えた男雛と、珊瑚の入った冠の瓔珞を垂れた女雛…」と描かれたその雛は、いつの時代の作なのでしょうか。

 伊達家に伝わる雛のなかで、最も古いのは、360年前(徳川家光の時代)の「寛永雛」(画像最上部)。男雛は約12cm、女雛は約9cmの高さで、髪は墨で塗っていますが、冠と同じ練り物製で、紙製の立ち雛時代から座り雛への過渡期の作品です。雛壇中央左にある大きな人形は、280年前の徳川吉宗時代の「享保雛」。高さ60cmの大型雛で、細面、二重描き目の写実的な表情です。衣装は金襴、錦が用いられて豪華です。250年前の宝暦年間に作られた「次郎左衛門雛」は、丸顔に引き目鉤鼻で、王朝文化の風雅をたたえていることから、享保雛をしのぐ花形となりました。同じ宝暦年間に京都で仕立てられた「有職雛」は、衣冠、直垂姿が多く、男雛は束帯装束、女雛は十二単衣です。ほかに若様雛、金太郎雛の変わり雛など40体と、数々の雛道具がそろっています。

 これらの雛は、伊達家に嫁がれた歴代の奥方が持参したものですが、それを開拓期の北海道に持ち込んだのは、伊達一門の亘理領主・伊達邦成の養母・保子です。亘理領が、一門とともに戊辰戦争で賊軍の汚名をきせられ、領民存続の窮余策として北海道開拓が建議されたとき、跡継ぎの伊達邦成を励まし、開拓移民を決意させたのは、この保子です。移住後、深窓の姫であったにもかかわらず、板囲い荒筵の古家に住み、毎日開墾の場に出向いて、「ご苦労様です。よろしくお願いします」と、開拓の人びとの労をねぎらい、手製のだんごを与えて、奮起を促したと言います。保子はまた、自分の所持品のほとんどを売り払い、食糧確保のため金策に奔走する邦成を助け、自ら養蚕事業にたずさわるなど、産業振興の基礎づくりにも尽くすのでした。
 そのようななかでも手放さなかったのが、この雛たちです。保子は、各種の集まりには花を生け、茶を立てて、和歌を詠み、節句には雛を飾って、村の女性や子どもたちと語り合って、人びとの心を和らげるのでした。その心は受け継がれ、「節句が近づくと、伊達家(現迎賓館)に集まって、雛飾りをし、お茶を飲みながら、昔話をしたものです」と、懐かしそうに語る開拓民の子孫たちがたくさんいます。

 今年の開拓記念館ひなまつりは、常設展示をしている亘理伊達家のひな人形の展示に加え、江戸時代のひな祭りの様子や、ひな人形の本来の意味である「嫁入道具」を展示するほか、昔の遊び「貝合わせ」の体験コーナー、お菓子と甘酒のサービス(3月3日(水)のみ)など、楽しい企画がいっぱい。また、3月3日(水)は入館が無料となっています。

伊達市開拓記念館HP「ひなまつり特別展」
http://www.funkawan.net/hnm10.html
http://www.funkawan.net/hnm10.pdf
あしたはきょうよりもっといい日。