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[建築物]★大阪市中央公会堂(大阪市)

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中之島のランドマーク、大阪市中央公会堂。大正7年(1918年)の建築)

 大阪市北区、大都会のど真ん中、北に堂島川、南に土佐堀川が流れる中之島の地に建つランドマーク的存在の建物です。川の流れと木々の緑色に映えるネオ・ルネサンス様式の外観は、大阪城通天閣と並んで、大坂を代表する景観だと言っても過言ではないでしょう。
 大阪中央公会堂は、当時の大坂を代表する株式仲買人でもあった岩本栄之助によって大正2年(1913年)に着工され、大正7年(1918年)に竣工しました。以来1世紀以上にわたって、国際的なアーティストによるオペラやコンサートのほか、各界著名人の講演会も数多く開催されるなど、大阪の文化・芸術・社会活動の発展に大きく関わってきました。しかし、たび重なる改修などにより創建当時の意匠が損なわれ、老朽化が進んだことから、平成11年(1999年)保存改修工事が始められ、4年の歳月を経て、平成14年(2002年)完成しています。この際、工事は歴史的建築物としての保存、および創建時への復元改修に加え、古い建築物に高い耐震性を与え甦らせる「免振レトロフィット」と呼ばれる工事や、時代のニーズに応えて次世代まで活用できるよう、スロープやエレベーターを新設するなどの工事が行われました。建物は、時代の流れと共に、その役割を変えていきましたが、現在でもなお、公会堂の壮麗な雰囲気を生かした様々な利用がされており、大阪市民の活動拠点となっています。こうして美しく甦った大阪中央公会堂は、平成14年(2002年)公会堂建築物としては西日本では初めて、国の重要文化財に指定されています。ぼくがこちらの建物を訪問したときには、ちょうど結婚披露宴が行われていました。新郎新婦さんが、大阪市中央公会堂を背景に結婚写真を撮っておられました。偶然とはいえ、華やいだ雰囲気が漂っていました。なお、こちらの建物は現役で稼働している建物であるため、各種集会室の公開はされていません。
 大阪市中央公会堂は、鉄骨煉瓦造りの地上3階、地下1階。ネオ・ルネサンス様式を基調としつつ、バロック様式の壮大さも合わせ持ち、細部にはウィーン分離派様式も取り入れられています。赤煉瓦の外壁に、白い御影石を水平の帯状に廻し、窓枠はクラシカルに装飾。南側玄関には、建築当時の「大阪市中央公会堂」と書かれた看板が現在でも残っています。屋根にはドーム状の大屋根が架かり、屋根窓と相まって印象的。建物の内部も、ネオ・クラシック様式を基調としながら、装飾を幾何学的に簡略したモダンなゼツエッション様式も見られ、さらには和風の意匠も組み込まれています。中会議室には干支の動物を象った透かし彫りの装飾があったり、小会議室には洋画家松岡壽(ひさし)によって「天地開闢」が描かれた天井画、壁画が特徴です。

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大阪市中央公会堂が誇る、大集会場(大ホール)。レトロな雰囲気が素晴らしい)

 大集会場(ホール)は、1階から2階までの吹き抜けとなっており、最大1161人の収容が可能となっています。大正時代にはロシア歌劇団によるオペラ『アイーダ』が上映されたほか、天才科学者のアルフレッド・アインシュタイン社会福祉家のヘレン・ケラーソ連の宇宙飛行士ガガーリンなどもここで講演を行っています。現在でも、各種講演会やコンサート会場として利用されています。
 3階には中集会場と小集会場、および特別室(非公開)があります。中会議室は、以前は大規模な宴会や食事を催す会場だったそうです。中会議場は、高い天井と繊細で愛らしいシャンデリアが特徴的。よく楽器を使ったコンサートが開催されるそうです。また小会議室は、木目調の温かみのある部屋です。
 また、特別室(非公開)には、創建当時に掛かっていたカーテンも展示されています。京都西陣の工芸織物業者が制作したもの。現在掛かっているカーテンも、やはり西陣にある会社が同じ図柄で制作したものです。現在では映画などのロケーション撮影をはじめ、会合や結婚式にも利用されています。高い天井やそこに描かれている天井画、大きなステンドグラスもこの部屋の自慢です。天井に描かれているのは、日本神話に登場する「天地開闢」物語の主人公、「イザナギ」と「イザナミ」それに天津神である「アマツカミ」の3人です。作者は19世紀から20世紀にかけて活躍した洋画家の松岡壽(ひさし)。南側と北側の壁画も非常に見事です。商業の神として北側に「スサノオノミコト」、南側に工業の神として「フトダマノミコト」が描かれています。2神を同時に描くことで、大阪市の商工業の繁栄を願っています。特別室の東側(東向き)には、扇形の窓いっぱいに施されたステンドグラスが圧巻の美しさです。何と5,000枚を超えるパーツで出来ているそうです。鳳凰のデザインが施され、現代のガラスとは違って、微妙に色彩や質感に独特の味わいがあります。ステンドグラスには凸レンズが224枚使われていますが、これらは窓から入る光が拡散されるよう掲載されたものだとか。また、特別室の扉には、別の細工をしたきをはめ込む「木工象嵌もっこうぞうがん)」という技術も施されています。
 地下1階の「中之島ソーシャルイートアウェイク」は、レストランとしてリノベーションされ、クラシック・モダンな雰囲気の中で和食の素材を生かしたクール・フレンチ、イタリアン料理が楽しめます。同じく地下1階には、展示室があります。展示室に向かう廊下は、煉瓦壁や電灯が、半円アーチ状の構造と相まってレトロな雰囲気。また、この廊下には木製座席がベンチとして置かれていますが、これは改修以前に大集会場(大ホール)にあった木製座席を保存したものです。また、階段ホールに保存されている木製の柱は、保存再生工事の際に取り出された4000本の基礎の杭(松の木)だそうです。このように、創建当時の調度品や柱などは、館内のあちこちに保存されており、実際に観ることができます。
 
 建設費は、当時で100万円(現在の金額に換算すると、およそ50億円)。全額、当時の株式仲買人でもあった岩本栄之助の寄付によるものでした。設計は、懸賞金付き建築設計競技(現在でいうコンペ。最終選考には13名が参加)のなかで、当時29歳の岡田信一郎案が第1位となり、岡田の原案に基づいて辰野金吾と片岡安のふたりが実施設計に当たりました。辰野金吾と片岡安は、2人とも明治時代を代表する建築設計者ですが、特に辰野金吾は、東京駅駅舎の設計者としても有名です。赤煉瓦に白い御影石を廻した「辰野式」とも言えそうな様式。どことなく、雰囲気が東京駅に似通っているようにも見えませんか。
 ここで、大阪市のシンボルとも言えそうな大阪市中央公会堂の建設のために莫大な資材を投じながら、その完成を待つことなくこの世を去った岩本栄之助に触れてみましょう。岩本栄之助は明治10年(1877年)大阪市南区に、両替商「岩本商店」の次男として生まれました。小学校を出て進学した大阪市立商業学校卒業後、外国語学校などに通うかたわら、家業の手伝いを始めます。明治30年(1897年)日露戦争に出征し、除隊後明治39年(1906年)に家督を継ぎ、正式に大阪株式取引所の仲買人として登録されました。栄之助が仲買人となった直後の明治39年(1906年)北浜の大阪株式取引所を日露戦争終結に端を発する空前の大暴騰が襲います。株価は急騰し「買えば必ずもうかる」とさえ囁かれました。明治42年(1909年)には「北浜の風雲児」とまで言われるようになり、実業家渋沢栄一を団長とする渡米実業団に参加。アメリカ大都会の公共施設の立派さや、富豪たちによる慈善事業・寄付の習慣に強い印象を受けたそうです。大正3年(1914年)株式仲買の第一線から栄之助は身を引きますが、翌年には再び株式仲買の世界に身を投じます。しかし、世相は折からの第一次世界大戦勃発による高騰相場となっており、栄之助は莫大な借金を抱えてしまうことになります。周囲の人々は、大阪市に寄付した100万円の一部を返してもらうように勧めたのですが、栄之助は「一度寄付したものを返せというのは、大阪商人の恥である」としてこれを拒否。大正5年(1916年)自宅でピストル自殺の道を選びます。栄之助が生死をさまよった5日間、彼に恩義を感じた北浜の仲買人たちは、大阪天満宮に夜通しかがり火をたき、無事を祈ったとされていますが、栄之助は同年、享年39歳でその生涯を終えました。栄之助が夢見た大阪中央公会堂は、その死後2年後の大正7年(1918年)に完成しています。

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