寒冷な津軽地方では木綿の栽培ができず、移入に頼らざるを得ない綿製品は非常に高価なものでした。 さらに1724年(享保9年)「農家倹約分限令」が発布され、農民は仕事着、普段着において木綿の使用が禁止されることになり、以降津軽・弘前地方の農民は紺麻布を着衣して用いていました。 しかし、荒い仕立ての麻布は通気性が良すぎるため、津軽地方の冬の寒さを防ぐことができず、寒さで命を失ったものも多くいました。 そのため、明和年間(1764年頃との推測されているが他説もある)になり、木綿の糸が手に入るようになると、農家の女性は麻布に刺繍をして布地の目を埋めることで、暖かい空気を着衣の中に取り込み留めることに成功し、以後は快適な被服気候を保ったとされています。後年さらに改良がなされ、刺繍を細かくすることで、肩に背負う籠ヒモからの摩耗を防ぎ、装飾性の向上にもつながったとされています。
「こぎん刺し」は一時、木綿など外国産の製品が大量に輸入されたことにより衰微しましたが、昭和初期、柳宗悦らの民藝運動で再評価され、現在に至っています。(Wikipediaより)(2017.8.1現状を確認)
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