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[文学展]★石川啄木 小樽・旭川よりの書簡 明治40年10月 展

石川啄木 小樽・旭川よりの書簡 明治40年10月 展
 函館市文学館、2014年10月12日(日)-2015年4月8日(水)

 明治40年8月25日、函館のほとんどを灰塵に帰した大火のために職を失った石川啄木は、新しい生活の糧を求めて札幌に移りました。しかし、勤めた北門新報校正係の仕事も2週間足らずで辞め、創刊間近の「小樽日報」に勤めるべく小樽に向かいます。引っ越しの様子を岩崎宛の手紙に「こゝ名も優に美しき花園町の、トある南部煎餅売る店に移り住みたる男女四人有之候、四人の一人は小生にてあとは母とせつ子と可愛き京ちやんに候、(中略)早速せつ子と共に買物に出かけて洋燈火鉢箒花瓶炭入など買うて参り候に、(中略)『わが家庭』といふ云ひ難く 安けき満足は、いま名残もなく小生の胸に充ち満ち居候、(後略)」と書いて、久し振りの家族四人で暮らせる喜びを伝える 木でした。
 しかし、三面の責任者となって前途に明るい光が見えたかに思えた小樽日報の仕事も3ヶ月足らずで失ってしまい、それと共に家庭生活も破綻していきます。無収入のままで年を越す一家の惨状を日記に「(前略)夜となれり。遂に大晦日の夜となれり。妻は唯一筋残れる帯を典じて一円五十銭を得来れり。母と予の衣二三点を以て三円を借る。之を少しづつ頒ちて掛取を帰すなり。(後略)」と記しています。
 そして、年が明けてまもなく、小樽日報の社長が釧路で経営していた新聞社の方に勤めることになり、啄木は、単身釧路へと向かいます。小樽駅に見送りに出た妻節子の姿を後に啄木は、「子を負ひて/雪の吹き入る停車場に/われ見送りし妻の眉かな」と詠みました。行く手定まらず、最果ての町釧路に活路を見いださざるを得なくなった啄木は、どんな気持 ちで小樽を旅立ったのでしょう。また、幼子を背負いながら、節子は、真冬の小樽駅を旅立つ夫をどんな思いで見送ったのでしょう。その心情を思いますと胸が痛みます。
 今回の展示では、明治40年10月~12月に小樽から、そして釧路に向かう途中に一泊し た(明治41年1月20日)旭川から、苜蓿社の同人宮崎大四郎(郁雨)と岩崎正(白鯨)に宛てた手紙とはがき(賀状2通含む)9通を展示いたします。啄木の心の様子を感じとってい ただければ幸いに存じます。

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