「観るだけ美術部」部長のブログ

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あしたはきょうより、きっといい日。

[建築物]★弘前城 天守(弘前市、現存、重要文化財)

弘前城 天守閣(弘前市、現存)

 観るだけ美術部長は、2023年3月26日(日)-29日(水)にかけて青森県弘前市黒石市周辺を旅行してきました。こちらの記事では、この時観光してきた弘前城について、紹介していくことにします。

(関東以北で唯一、現存天守の残る弘前城です)

 弘前城は、言わずと知れた東北の名城であり、関東以北では唯一天守が現存する城郭としても有名であり、なおかつ、サクラの名所としても知られています。弘前城に関する詳しい著書も多数あるので、ここでは割愛して、個人的な感想と、簡単な略記を載せるに止めることにします。

 www.hirosakipark.jp

 1590年(天正18年)大浦為信(のちの津軽為信)が津軽地方を統一し、豊臣秀吉から津軽3郡の領有を認められました。4万5千石の領地を得た大浦為信は、1594年(文禄3年)大浦城から堀越城に移り、藩の基礎作りを始めます。1600年(慶長5年)関ヶ原の戦いでは2000あまりの兵を率いて東軍に参戦、その功績が認められて、さらに2千石が加増されました。1603年(慶長8年)には徳川幕府の成立とともに、外様大名のひとりとして津軽領有を承認され、高岡(現在の弘前市)に新たな町割りを行い、次々と領地の整備を進めました。

(観るだけ美術部長も、数十年ぶりの弘前城訪問でした)

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 その後、津軽為信は1607年(慶長12年)に病没、3男であった津軽信枚が跡を継ぎました。1609年(慶長14年)幕府より築城許可が下り、1610年(慶長15年)に築城が開始され、その翌年(1611年)に5層の天守を備える「高岡城」が完成します。その後もさらに堤防などの建築を進め、1628年(寛永5年)に「高岡」から「弘前」に名前を変えたようです。

www.homemate-research-castle.com

 しかし1627年(寛永4年)弘前城天守は落雷を受け、5層目から順番に燃え広がり、吊るされていた鐘が熱で真っ赤に燃え、その灼熱の鐘が地下の火薬庫にまで焼け落ち、火薬に引火して大爆発をおこしたと伝えられています。弘前城が大爆発した際の火柱は、およそ20km離れた碇ヶ関からもはっきり見えたそうで、飛散物は8kmほど先まで飛んでいったそうです。

benesse.jp

 『武家諸法度』により、自由に城を築くことができなくなったことに加え、5層以上の天守の建築も厳しく制限されていたことから、天守は再建は許されず、天守の代わりとして隅櫓が代用されたため、弘前城はおよそ200年も天守閣がないままの状態が続きました。のちに、9代津軽寧親(やすちか)が1810年(文化7年)、蝦夷地警備の功績により、石高が昇格したのを契機に、天守櫓移築という名目で幕府の許可が下り、天守代わりとして使用していた隅櫓を改造する形で新築されたのが、南西隅に3層をなし「御三階櫓」(ごさんかいやぐら)と称される現在の天守でした。なお落雷により焼失した5層の天守は本丸南西部を守っていた櫓で、現在は石垣のみが残されています。

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弘前城天守。こちら側が正面で、華やかな装飾になっています)

 弘前城の隅櫓や城門は、別記事に譲ることにして、ここでは天守について見ていきます。天守閣の外壁は白漆喰塗籠で、窓と狭間の上下に長押形を施し、また屋根瓦に銅瓦を葺いている点が特徴的です(寒冷地のため、瓦割れを避ける必要があった)。外側に面する東面と南面は1層目と2層目に大きな切妻破風とその下に出窓(石落としを兼ねていた)を設け、窓部分には鉄扉窓を付けず、矢狭間窓を用いるなど、小さな建物を華美で大きく見せる視覚効果が施されています。いっぽう、内側である西面と北面には破風は設けず、連子窓を単調に並べただけで、いわゆる「二方正面」の建築様式です。西面と北面の窓は大きく取られていることから、採光も配慮されたものと思われます。

(観るだけ美術部長も、乗り出して見学しておりました)

 通常の天守建築では、内部は最高級の木材や技術が用いられるのですが、弘前城の場合は、普通の櫓と同等の木材が使われているなど、構造的にも質素になっています。床面もすべて敷居を設けていないことから、畳を敷くことが想定されていないのではないかと言われています。付属の隅櫓、城門と合わせて、重要文化財に指定されています。

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 現在、弘前城では、本丸の石垣が外側に膨らむ「はらみ」が見られたことから、石垣の一部を修理する工事が行われています。前回の修理は1915年でしたので、じつに100年ぶりの大規模修理となります。内濠(うちぼり)の埋め立てや、「曳屋」(ひきや)と呼ばれる手法を用いて、天守をそのままの形で移動させるなど、大規模な工事となっています(天守は400t。それを70日かけて、およそ70m移動させた)。完成は、早くとも2025年とも言われています。弘前城では、この大修理の様子を見ることができるほか、「曳屋」(ひきや)された移動後の天守も観ることができます。岩木山を背景に天守がそびえる姿も見事です。

岩木山も綺麗に見えました!)

 

 

あしたはきょうよりもっといい日。