
支笏湖ユースホステルは、1955年(昭和30年)、支笏湖小学校の旧校舎を改修して、日本ユースホステル協会初の専属施設として開業。それから5年後の1960年(昭和35年)7月、全面改築した現在の旧館「赤い三角屋根」が、国内の直営ユースホステル第1号として竣工したのでした。設計したのは、北海道を代表する建築家田上義也でした。
田上は、道内各地にユースホステルのほか、著名人の私邸、博物館、学校、銀行などを残し、多くの人がその建築を研究しています。また、その作品が時代の流れとともに取り壊し建替えられて姿を消していく中、旧小熊邸に代表されるように、市民が存続を求め保存再生への運動が起こるなど、歴史的建築物としても評価も高いものがあります。
支笏湖ユースホステル旧館も、存続そして活用のために動き出しました。今年(2013年以前のことと思われます)4月、三角屋根の有効活用を考える会「屋根裏の会議室」が支笏湖ユースホステルで開催されました。建築の専門家、ユースホステル愛好者など18人の有志が意見交換をし、その席では、4月から21年ぶりにペアレント(ユースホステルの管理人)に復帰した吉川悦子さんも「赤い三角屋根」への思いを語りました。千歳に住み、幾度も支笏湖畔を訪れ三角屋根に目を留めることはあっても、日本ユースホステル協会初の直営施設、著名な建築家の作品ということを知る人は少ない。この歴史的建築物について、また、設計者の思いや施設の存続を願う人たちについて紹介します。
建物のもっとも特徴的なのは、やはり赤い三角屋根です。「支笏湖畔に入ってきて、まず左手に赤い三角屋根が目に入る。シンボル的な存在だった」と長年ペアレントをされてきた吉川悦子さんは語ります。急勾配の屋根は、田上が確立した「雪国的造型」が意識されています。木造2階建て、延べ床面積598・03平方㍍。建物は上から見ると十字型で、出入口側はピラミッドのような三角の顔になっており、急勾配の屋根が地面まで伸びています。内部は、白い壁を窓枠や柱、梁の濃色な木で引き締め、食堂のカウンターやホール中央の吹き抜けに吊されているランプなどのアンティークな照明器具もモダンで趣きがあります。

(特別に旧館のなかを見学させていただきました。ありがとうございました)

(旧館の中央ホール。右側に見えるのが受付けカウンターで、左側に見えるのが螺旋階段)

(受付カウンターには、当時の面影がまだ色濃く残っているようです)
ホールの中心には2階へ昇る螺旋階段があります。螺旋階段を昇りながら見上げると、三角屋根の頂点までの吹き抜けが開放感を与えてくれます。同じく田上が設計した、旧北見教育会網走博物館で現在の網走市立郷土博物館の螺旋階段も同じ形状であります。

(螺旋階段を上から撮影してみました。螺旋の形状が、何とも美しいです)

(2階中央ホール。階段を中心に集会場や部屋が配置されています)

(2階集会室。建物を正面から見たときの2階部分、つまり三角屋根部分に当たります)
宿泊室にはユースホステルに欠かせない2段ベットが両側に設置され、大きな窓からいっぱいの日差しが取り込まれています。(2013年11月、現状を確認)

(1階中央ホールからのびる宿泊部分。廊下を挟んで左右に部屋が配置されています。
入口のドアには「Merry Christmas」の文字が)

(一般的な宿泊部屋。左右に4台ずつ、計8台の2段ベッドが並んでいました)
(文章は、中村康文(総務部主管付主査、市史編纂担当)『千歳市史』よりお借りしました)
■この文章は以下より転載しました↓
こちらの旧館は、現在は資材置き場などに使われており、宿泊は新館で行われていました。学生や工事関係者に利用されてきましたが、今回のコロナ禍により力尽きたそうです。このところ、懇意にしていた「松山額縁店」、もう一度訪れたかった「音威子府駅 常盤軒」、そして、今回の「支笏湖ユースホステル」と、コロナ禍による閉店が相次ぎ、無念の気持ちでいっぱいです。なお、支笏湖ユースホステルは閉館となりますが、建物は個人経営の会社に譲渡されるらしいので、解体されずに保存されていくことを強く望みます(できれば、登録文化財に指定してほしい、その価値は十分にあると思うのです)。
※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、ブログ運営者がみずから撮影したものです。旧館内部は特別な許可をもらって撮影させていただきました。こちらの記事は、2013年11月に掲載した記事に修正を加え2021年2月に再度記事にしたものです。