「観るだけ美術部」部長のブログ

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[道外展]★北からの開国展

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近藤重蔵 『蝦夷全図』、福山市歴史資料室)

★北からの開国展

 神奈川/神奈川県立博物館、2019年7月13日(土)-9月1日(日)

(WEBサイト→)http://ch.kanagawa-museum.jp/exhibition/4050

 

 四方を海に囲まれた海国日本は、海が自然の要害となったことから、容易に異国船が接近できなかったこともあり、海外における戦争や紛争の影響を受けることなく「鎖国」政策による平和を享受することができました。しかし、18世紀に入ると、航海術や造船技術の発達により、異国船が日本近海に頻繁にその姿を現すようになります。海は異国と日本とを結ぶ路(みち)となったのです。そのような状況下において、日本と初の条約を締結したアメリ東インド隊司令長官ペリーの来航より60年以上前の寛政3年(1792年)、ロシアはラクスマンを派遣し江戸幕府へ開国通商を要求します。
 幕府は、ラクスマンの来航に端を発し海岸防禦(海防)態勢が不備であることに危機感を募らせます。その後、文化元年(1804年)のレザノフ来航や文化5年(1808年)のフェートン号事件などの対外的危機が相次いだことから、全国的な海防態勢の強化を図りました。総延長約430キロの海岸線を有する神奈川県域においても、三浦半島を中心に多くの台場が築かれました。
 そこでこの展覧会では、自然の要害として機能していた海が異国と日本とをつなぐ路へと、その役割が変容したことを踏まえつつ、アメリカに先立ち北から開国を求めたロシアとの関係を浮き彫りにするとともに、「鎖国」を維持するために構築された海防態勢を紹介することで、開国史の新たな視点を提供します。

 

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(大黒屋光太夫によるロシア文字(扇子)、大黒屋光太夫記念館)

※なお、こちらの掲載画像は、当ブログが独自に定めるガイドラインに基づき、神奈川県立博物館さま(HP)よりお借りしました。

 

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