(監獄の壁に書かれた尼港事件犠牲者の遺書
「大正9年5月24日午後12時忘ルナ」と書かれている)
「大正9年5月24日午後12時忘ルナ」と書かれている)
★山田伸一「尼港事件の碑を訪ねて」本館学芸員
道立北海道開拓記念館、2010年11月14日(日) 13:30
みなさんは「尼港事件」という出来事を知っていますか?1920年(大正9年)、ロシア革命に干渉しようと日本が軍隊をシベリアに送ったさなか、アムール川河口の「ニコラエフスク(=日本語:尼港)」で、民間人を含む日本人多数が殺される事件が起こりました。このときの犠牲者を悼んで、各地に建てられた碑をたどりながら、事件を地域社会がどう受けとめたのかを考えます。
※尼港事件(にこうじけん、Nikolayevsk Incident)
尼港事件は、シベリア出兵中の1920年(大正9年)3月から5月にかけて、ロシアのトリャピーチン率いる、ロシア人、朝鮮人、中国人四千名から成る、共産パルチザン(遊撃隊)によって黒竜江(アムール川)の河口にあるニコライエフスク港(尼港、現在のニコライエフスク・ナ・アムーレ)の日本陸軍守備隊(第14師団歩兵第2連隊第3大隊)および日本人居留民が無差別に虐殺された事件。シベリア出兵が長引く一因となった。
共産パルチザンに対して一旦休戦した後、共産パルチザンが騙し討ちをし、日本軍側が反撃するも敗北。生き残った日本人は軍人であるか民間人であるかを問わず捕虜とされた。そして、5月に日本陸軍がニコライエフスクへ援軍を送るやパルチザンは全ての捕虜を惨殺した上で遁走した。また、日本人以外の白色(共産主義に同調せぬ)市民6000人を虐殺した上、町を焼き払った。
のちにこの共産パルチザンの責任者はソビエト連邦政府により死刑に処せられることとなった。この事件による日本人犠牲者は約700名にのぼり、その半数は民間人であった。このため、国内世論は憤激の声が渦巻き、反共の気運が強まって、後々まで大きく尾を引くことになった。
シベリア出兵中の紛争事件。1920年(大正9年)2月、黒竜江のオホーツク海河口にあるニコラエフスク(尼港)を占領中の日本軍1個大隊と居留民700余名は、約4000のパルチザンに包囲され、休戦協定を受諾した。ところが3月12日、日本側が不法攻撃に出たため、パルチザンの反撃を受けて日本軍は全滅し、将兵、居留民122名が捕虜となった。5月日本の救援軍が尼港に向かうと、パルチザンは日本人捕虜と反革命派ロシア人を全員殺害し、市街を焼き払って撤退した。日本はこの事件を「過激派」の残虐性を示すものとして大々的に宣伝し、反ソ世論を高めた。参謀本部はこれを利用して、アムール州からの撤兵を中止し、7月にはハバロフスク駐兵の継続を決め、またこの事件の解決をみるまで北樺太(からふと)を保障占領するとして、これを実行した。25年日ソ国交回復交渉で日本は賠償請求したがソ連は拒み、結局5月に樺太から撤兵して解決した。
★道立北海道開拓記念館HP
★「尼港事件」(Wikipedia)
★「尼港事件」(Yahoo百科事典)
★「尼港事件 殉難者慰霊碑」
↓いつも、こちらを1クリックしていただき、ありがとうございます。