「観るだけ美術部」部長のブログ

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あしたはきょうより、きっといい日。

[通信教育]中世ヨーロッパの魔女狩り

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 きょう、放送大学から、通信添削の課題が送付されてきました。6月8日(火)必着だそうです。課題はふたつ。設問の内容は、ここでは書きませんが、中世ヨーロッパに関わる問題です。

 ところで、中世ヨーロッパ史のひとつの側面として、「魔女」「魔女狩り」などがあります。ちょっと調べてみました。

■「魔女狩り」(ウィキペディアより)
http://members.jcom.home.ne.jp/0350371001/works/works_4_i.html

 魔女狩りとは、中世末期から近代にかけてのヨーロッパや、北アメリカにおいてみられた魔女(sorcières、Witch)や、魔術行為(Witchcraft)に対する追及と、裁判から刑罰にいたる一連の行為のこと。現代では、このような行為は心理学的な観点から、集団ヒステリーの産物とみなされているが、現代においても、前近代的な文化や、古来からの伝統を重視する社会においては、魔女狩りに類した行為が行われることがある。
 かつて魔女狩りといえば「12世紀以降キリスト教会の主導によって行われ、数百万人が犠牲になった」というように言われることが多かったが、このような見方は、1970年代以降の魔女狩りの学術的研究の進展によって修正されており、「もともと民衆の間から起こった魔女狩りは、15世紀から18世紀までにかけてみられ、全ヨーロッパで最大4万人が処刑された」と考えられている。

 古代以来、人々は自らの限界を超えた大きな力、自然をコントロールしたり、超自然に干渉できる力を何らかの方法で持つことができると考えていた。もともと、ヨーロッパの各地では、民事に関しては、権力者でなく、民衆が自発的に行う民衆裁判によって治安を維持する伝統があった。また、同じ魔術でも、良い目的に用いられると考えられたもの、いわゆる「白魔術」は、一般的に良いものとみなされていた。

 中世に入ると、キリスト教社会において、悪魔が、人間や動物を使って悪のわざを行うことが信じられるようになった。このような考え方は、キリスト教以前からの民族信仰の名残りや、十字軍兵士たちによって東方から持ち帰られた思想・文化などが融合して生まれたと考えられている。
 かつて「魔女狩り」といえば「中世ヨーロッパにおいて、ローマ教皇庁の主導によって異端審問が活発化し、それに伴って教会の主導による魔女狩りが盛んに行われるようになり、数百万人が犠牲になった」のように語られることが多かった。しかし1970年代以降、さまざまな研究によって、このようなステレオタイプな見方は覆されることになった。

魔女狩りの展開と衰退
 12世紀に始まった異端審問が、それまで民事裁判で裁かれていた魔術を扱うようになったのは15世紀に入ってからであるが、それはスイスやフランスのアルプスに近い地方で始められた。ノーマン・コーンによれば、記録に残るものでは、1428年にスイス、ヴァレー州の異端審問所が魔女の件を扱ったものが最古であるという。もともと、この地方の異端審問所は、ワルドー派の追及を主に行っていたため、やがて異端の集会のイメージが魔女の集会のイメージへと変容していくことになる。悪魔を崇拝する、あるいは聖なる物品を侮辱する、子どもをとらえて食べるといった魔女の集会の持つイメージは、かつて異端の集会で行われていたとされたものそのままであった(魔女は本来群れるものとされていたのであり、森に一人で住む魔女というイメージはグリム童話などに負うところが大きい)。

 さらに、魔女の概念が、当時のヨーロッパを覆っていた反ユダヤ主義と結びつくようになると、「子どもを捕まえて食べるかぎ鼻の人物」という魔女像がつくられていった。魔女の集会がユダヤ人にとって、安息日を意味する「サバト」という名称で呼ばれるようになるのも、反ユダヤ主義の産物である。このように人々の間に共通の魔女のイメージが完成したのが15世紀のことであった。

 魔女狩りの最盛期は16世紀から17世紀であったが、17世紀末になって急速に衰退していく。なぜ魔女狩りが衰退したのかということについてはさまざまな説があるが、どれも決め手に欠くきらいがある。たとえば、17世紀はガリレオ・ガリレイ(1564年-1642年)、ルネ・デカルト(1596年-1650年)、あるいはアイザック・ニュートン(1643年-1727年)など、近代的な知性の持ち主たちが次々と登場し、出版物によって人々の意識を変えた時代であったため、前近代的魔女狩りが一気に衰退したという説明がされることがある。しかし、このような見方はあくまで現代人の見方である。印刷術が普及したといっても、メディアの発達していない当時の社会では、ある思想が階級や国境を超えて普及するのには長い時間が必要であり、ニュートン錬金術に夢中であったことからわかるように、当時の先端を行く科学者たちですら、前近代的な思考スタイルから抜けていなかったことを理解する必要がある。

 ただ、17世紀末期になると、知識階級の魔女観が変化し、裁判も極刑を科さない傾向が強まったこと、カトリックプロテスタントともに個人の特定の行為の責任は悪魔などの超自然の力でなく、あくまでも個人にあるという概念が生まれてきたことは確かなことである。依然として、一般庶民の間では魔女や悪魔への恐怖があって「魔女」の告発が行われても、肝心の裁判を担当する知識階級の考え方が変化して、無罪放免というケースが増えたことで、魔女裁判そのものが機能しなくなっていった。しかし、パレスチナ委任統治していたイギリスの法制度を導入したイスラエルでは、現在でも施行され続けている。

★「魔女狩りウィキペディア
http://members.jcom.home.ne.jp/0350371001/works/works_4_i.html
あしたはきょうよりもっといい日。